いしずえ

第二 戦後の國民運動(一 占領政策に対する意見具申:ウエレアムズと佐藤栄作)【続】

 そこで彼は急に角度を変えて「君が本当のことをいわなかったら、占領政策批判として逮捕せねばならなくなる」と狡そうな眼つきでこちらを伺っている。そこで私もムッとして抗議した。

 「アメリカは意見具申と批判との区別がないのですか、意見を(Opinion)といい、批判を(Criticize)というではないか、意見はいさめることであり批判は攻撃することである。つまり善意と悪意、賛意と反対ほどちがう。私はアメリカに善意をもって言っているのであって、悪意をもって攻撃しているのではない」

 「占領政策批判と意見具申とを混同して逮捕せねばならぬ程アメリカは混乱しているのだとしたら、またアメリカの態度がそういう性質のものだったら、これから善きにつけ、悪しきにつけ私共は盲となり、啞となって盲従するまでである。それがアメリカのためだというなら、これからそのように改めます。唯一言つけ加えるが、忠言は耳に逆い良薬は口に苦しという言葉がある。それをよく味っていただきたい」

 これには些か博士も参ったらしく暫し黙していたが今度は態度を改めてニヤリと薄笑を浮かべ「君はどういう政治家と交っているか」と裏からつけ込んで来た。

 この質問は鳩山を引きだすためだなと思った。もとより鳩山とは無関係であるので出るわけはない。

 「共産党以外の政治家とは殆んど交っている」

 「いや!特に親しい政治家は誰か」と範囲を狭めて来たので、

 「自由党や社会党の幹部は大概知って居ります」

 「例えば誰々か」

 そこで人名を挙げなければならぬことになった。

                                   続 く
    

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/01(日) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(一 占領政策に対する意見具申:ウエレアムズと佐藤栄作)【続】

 無難な人の名を述べた方が彼も安心するだろうと思ったので、佐藤尚武、岸信介、千葉三郎、池田清、浜田幸雄、馬場元治、灘尾弘吉、佐藤栄作を初め、広川広禅、池田勇人、根本竜太郎、苫米地義三、大橋武夫、宇田耕一、片山哲、原彪、西尾末広、平野力三等10数名の名をあげた。

 この日はここで終り、その後何回も司令部に呼出され、ケーデス大佐の下にあるネピア少佐という男にも二度あった。どういうものか、総司令部の参謀部と民政部のうち、前者は日本に対して好感、同情、理解をもっていたように思われるが、後者の方は日本政府の内部と地位及び政策を掌り、公職追放、憲法などを担当していたためか高慢不遜、権力癖が強く、何度行っても親しめなかった。

 参謀部は直接日本軍と戦闘し、日本の戦闘力を理解し、尊敬をもっていたためでもあろう。何か言外に親しさを覚えさせるものがあった。第八軍アイケルバーカー、GHQ参謀部次長ウイロビー等は皆親しみを感じさせた。

 一カ月も過ぎた頃、佐藤栄作から「話したいことがあるから来てくれ」という電話があったので、何事かと思って行ってみると、例のウエレアムズに呼出され、惨惨油を搾られたらしく「今後暫くの間出入り、交際を遠慮してくれ」というのである。戸松慶議と今後交渉してはならない。若し交際をつづけるならば追放するとおどされた。
 
 それから交渉を断っていたが、内閣を退いてから電話があって会いたいということだった。彼は政権の座にあった頃は毎朝九尺二間の玄関一ぱい靴がならぶほどの来訪者が来たものだった。が現は訪ね来る人も少ない。孤独になると不思議に君を思い出す、君こそ真の朋友だ、と数年来の疎遠を謝り「戸松君10年間の借りを返すよ」と約束したが、それから1年経たぬ間に世を去ってしまった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/02(月) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(二 GHQの汚職を暴く)

 この年昭和23年、昭和電工事件が起こった。

 摘発したのは刑事部長・藤田二郎であった。

 検挙は政界官界の大物が逮捕され芦田内閣は総辞職に追い込まれた。

 いっぽうGHQの民政局にまで追求の手を伸ばし、ケーデス次長等に数億円の金が流れている事実を掴んだ。

 ケーデス等は収賄罪の暴露を恐れ、田中栄一警視総監に対し藤田刑事部長を依頼免職するよう要請した。

 田中はその意を藤田に伝えた。

 藤田は権力に屈することを潔とせず、承服しなかった。

 而し再三のGHQの圧力に弱りきった田中は藤田に哀願するのであった。

 田中の苦衷を知った藤田は処置に悩み抜いていた。

 丁度その時、学友の速水親重に偶然ばったり出くわした。

 久々に一杯やろうということで料亭にあがりこみ、談盛んなるに連れ話は昭和電工事件に及び、ことの次第を語った。

 速水は現中国派遣軍司令部に勤めていた人物である。

 事変中清水はアメリカのジャーナリスト、マーク・ゲインと知りあい、東京に帰ってからも屢々会っていた。

 彼は「日本滞在日記」の著者であり、マッカーサー司令官とも親しい有力な人物である。

 速水はこれに訴えようと考えた。

 「私に一つよい考えがある。これがハッキリするまで絶対に辞職してはならない」といって「その資料を貸してくれ」と要請したので翌日、藤田は速水に資料を手渡した。

 速水はこれをマーク・ゲインに見せ、藤田の立場を説明した。

 驚いたマーク・ゲインはその資料に目を通した後、AP通信に伝送した。

 間もなくニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ヘラルド・トリビューンの大新聞に報道され、米国内は大騒動になり、ケーデス大佐、ダイク少将等は汚名を浴び、72名の関係者はアメリカの本土に送還され処罰されたのである。

 藤田は無事任務を果たすことができた。

 速水親重と私は共に支那事変解決に心を砕いた仲であった。

 藤田刑事部長は後に京都府の国家警察隊長として赴任し、私の全国遊説運動をよく面倒を見てくれた人である。

                                  続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/03(火) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)

 昭和13年南京政府が樹立された時近衛総理が国父孫文の無二の同志であった萱野長知氏に「この政府の将来どう思うか」と尋ねられた時萱野は「子宮外妊娠母子共に育たない」と答えられた。南京政府の首席汪精衛は孫文革命時代萱野長知氏の秘書であった。

 昭和17年萱野長知先生の手を経て「日支事変解決方案」が朝日新聞社緒方竹虎先生の目にふれていた縁で当時麻布に住んで居られた先生の邸で3日間朝9時から夕方5時まで「国家の将来」について論議した。これが初対面であった。

 緒方氏は占領後追放が解除になり自由の身になったならば、ふたたび政界に返り咲く意思をもっていた。氏は今の中に独立後の日本の内政外政についてじっくりと考え、識見をふかめておかねばならぬと考えているようであった。

 「戸松君、君の云ったとおりになったなあ」

 緒方氏は話題を新客の方にむけてきた。氏は松本藏治氏が話していたように、戦時中私が作成した和平方案とその実現のために身命を賭して運動した行動力に感服していたのであった。中部太平洋がまだ健在で、東条が米英撃滅を豪語しているとき、今をのがしたら和平の機を失い日本の運命が危険に陥入る。日本が敗戦すれば反共の防波堤がくずれ、アジアは急速に赤化するだろう、と警告しつつ和平案を主張していた当時の私が、緒方氏の脳裡につよい印象となってのこっていた。

 全く私のいった通りになった。中国は圧倒的に共産党の勢力が拡大し、かつての友軍ソ連とアメリカはことごとに対立し日に月に亀裂を深めつつある。この対立流動のはげしい戦後の国際情勢の中で、敗戦日本がどう生きぬいていくかは、国家の再興を志す者のひとしく考えをよせるところであった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/04(水) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)【続】

 この外政の問題で、緒方氏と私は真向から対立した。

 「こんご日本はソ連からもアメリカからも圧力をかけられる事になるでしょうが、日本は国力を回復するまで、アメリカとソ連の対立を利用すべきだと思います。アメリカを制する場合はソ連を利用し、ソ連をおさえるときはアメリカを活用したらいいでしょう」

 私が事もなげに云いきると、緒方氏は言下に「いや、それは下策だ」と、反対した。

 「君、それはもっとも戒まねばならぬ事だよ。個人でも国家でも己の姿勢が大切だ。策を弄するよりは姿勢だよ」

 「宮本武蔵は剣聖といわれるほど、人格、力倆ともに非凡でしたが、二刀流を活用しました。日本も国際的地位が確立するまでは、二刀流でいくべきだと思います。百個師団をうごかしても出来なかったことが、政治的二刀流によって達成されることも考えられます。
  アメリカもソ連も、アジア政策においては日本を獲得しなければ目的を果たせない事はよく知っているのですから、彼らの関心と野心を二刀でもってうまくさばき対処し利用して、着々と国力の充実をはかっていくべきだと思います。無芸な坐法はかえって両方から引き倒されてしまうことになります。弱肉強食の時代には、弱者の生きる道は、正義と反抗しかありませんから」

 緒方氏は、日ごろの温容な風貌を一変させ、闘志を顔面にみなぎらせて、一刀のもとにこの青二才をきりすててしまおうとする気構えをみせた。かみつくような口調でいった。

 「それじゃ聴くが、君は宮本武蔵が真剣勝負にのぞんだとき、どうしたか知っているかっ。
  武蔵は二刀流は編み出したが、真剣勝負では一ぺんもつかっていないぞ。いつも一刀で勝負した。なにごとによらず、一刀でなければ絶対にいい結果はえられないものだ」

 私はその語調の荒さに一瞬たじろいた。平素温厚な人であるだけに、不意をつかれた感がつよかった。また私は、緒方氏が歴史の裏に縦糸のように強靱に生きつづけ、歴史を織りなしてきた具体的人間について、深い洞察を加えているらしいことをつよく感じた。やはり大記者であっただけに、歴史の裏からつき出したものを新鮮にあつかう術に長けている。

 「勿論ですよ。日本の運命を決定するような場合には、一刀両断の主体的姿勢でいかねばなりません。しかし、常に先生のようにソ連にも組しないアメリカにも偏しない、坐して自国の姿勢だけを守るという生き方では、前途を切り開き成長発展していく事は出来ません。
  それは原則原理と、手段方法とを類別しない態度です。人格や基本姿勢というものはそうでなければなりませんが、手腕力量の面では、両国の対立を逆に利用しつつ成長充実をはかり、やがて両国を調和せしめるところまで、自分が思想的、経済的、政治的に大きく育っていかねばなりません」

 このとき、先客の一人がとつぜん横から槍先を突きつけてきた。緒方氏の後輩篠田弘作氏(後北海道選出代議士)であった。親分緒方に無名の若輩が堂々とわたりあっているのを生意気と思ったのであろうか。先輩の圧力で後輩を一突きに突きとばそうとした。

 「君たち青年はすぐそういう事を考える。戦時中北海道で青年運動をやっていたからよくわかるが、君の考え方は青年によくありがちな考え方だ。それは未熟だよ。誤っているよ」

 「篠田君……」

 緒方氏は全身の力をぶっつけるような勢いで、傍らの篠田氏をふりむいて叫んだ。

 「余計な事を云うのは止めたまえっ。私の客に無礼なことを云うなっ」

 猛虎が吼えるようであった。名は体を現すというが、温和なこの人も、いざとなると猛虎になれるのだ。皮肉な事に氏自身の人間的魅力は、その二刀的両刀の人間性の切れ味にあるのかもしれない。この態度は石原莞爾や久原房之介にもない独自のものであると思った。大宰相の人物とはこういう人をいうのであろう。

 運用の妙は一心に在りで終った。

 北一輝は緒方を連合艦隊司令長官であり、中野正剛は突撃隊長であると評した意味が私は分かった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/05(木) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)【続】

 二日目、緒方竹虎氏は冒頭から天皇制を論題とした。つい一年前まで禁句とされていた「天皇制うんぬん」の問題を、掘り下げて腹蔵なく語りあうには絶好の機会であった。

 「連合国が天皇制の廃止を主張しているのはまあ当然なんだが、日本国内に、共産党の外にも廃帝をとなえる者が案外多いことを君は知っているかね。そういう連中は、大統領制をとなえているんだ。君は今上天皇は即位すべきだという世論をどう思うかね」

 「天皇の問題については、先生がどんな考えをもっておられるか、それを先に伺ってみたいと思います」

 「どうも天皇の本質は理論的にはっきりしていないようだが、歴史的にみると、日本天皇は外国の国王とか皇帝とは違う事は確かだね。外国では皇帝や国王を国民が無理矢理に引きずり下して処刑したりしているが、日本の法皇や上皇はみんな自発的に退位しておられるよ」

 「それじゃ先生は、天皇が戦争の責任を感じて自発的に退位すると云われたら肯定されますか。国民の中には、天皇は自害なさるべきだと云う者もいますが、天皇が自発的に自害なさるなら、それでもいいと思われますか。それは裏を返せば、天皇が何をなさろうと、進んでなさる事はどんな事でも国民の関知すべき事でないという事になりますが、それでいいのですか」

 「む」

 緒方氏は声をつまらせたまま私を睨みつけた。天皇の本質が論理的に未だ明らかにされていないうえに、戦後天皇神聖のベールがよってたかって剥ぎとられたのであるから、こういう問いにたいしてはとっさに即座に下す事が出来なかったのであろう。緒方氏は沈黙のまま考えこんでしまった。暫くして笑いを含んだ声で云った。

 「君、天皇は神道の中核なんだろう。正直なところ僕は神道についての認識が乏しいんだよ。君は国学・古事記を先師について研究したんだからよく分かっているだろう。一つ君の意見を聞かせてもらおう」

 「天皇は天津日継のすめらみことであって高御座について、有限の肉体をもって日々神道を実現していく事である。
  天津日継とは別天津神(五柱)の神々の働きを日に日に承継ぎその御心、機能を下万民もとより万邦兆民に知らしめる事が天皇の使命任務である。範を万民に垂れ給う現人神である。天壌無窮の道を実践すると共に万世一系対立なき存在である。他国に無類の道ですから生きておられる間は自動的にも他動的にも、天津日継をおやめになることは出来ません。生きている限り神の道を全うされなばならないのです。天津日継の御位につくという事は、我欲を超えて無私無我に徹して道を践み行うという事であって、この上なく厳粛な事なんです。そして、神道の原理はこの一点に集約されております」

 「すると君、憲法は、天皇の本質である天津日継を放棄したことになるねえ」

 「確かに憲法によって日本の霊統は断絶しました。しかしこの事は日本国民の真の自覚と奮起をうながす絶好の機会となったと僕は考えます。
  奈良時代、儒教仏教が入来していらい、国民の自覚と総力によって神の道が開かれたという時代がかつてあったでしょうか。明治維新も一部の者が国学をもって幕府を倒しましたが、国民全体の自覚にはなりえず、新来の西洋文明に眩惑され結局西欧先進国を模倣し追随する事に終っただけでした。
  天皇は光又は道そのものであって、御自らがお力を発動なさるのではありません。天岩戸が八百万の神々の総智と総力によって開かれたように、天皇を中心として国民の智慧と力が結集されるとき、日本の道が開かれていくのです」

 「目をつむって君の話を聞いていると、年長者の話を聞いているような気がする。目を開くとはるか年下の清々しい青年だ。吉田松陰という人もきっと君のような人だったのだろうな」

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/06(金) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)【続】

 三日目は占領政策について語り合った。

 緒方氏は、終戦直後の東久邇内閣の官房長官で、日本の伝統的体制を倒壊するようなGHQのやつぎばやの指令に、抵抗を試みた一人である。弱者の倫理は正義と抵抗である。それは、内閣を投げだすという手段によって示されたが、GHQはこれを幸いと迎米的内閣をつくり、その指令はいよいよ強靱に日本解体へと向けられていた。

 今は緒方氏も旧体制の指導者として追放され、GHQの縛中にあるも同然の身である。いかに占領政策を批判してみたところで、弱者の愚痴にすぎない事をよく知っていたから、占領政策にたいしては傍観的であった。

 「僕はその中、日本人を餓死させないだけの食糧要求と無賠償要望をかかげて、マッカーサー司令部近くに座りこみをしようと思っています。マッカーサーの返答があるまで、20日でも1カ月でも断食座り続けるつもりです。弱者の要求はインドのガンジーの如く意志と忍耐でおしていくより外方法がありません」

 私が心中にあたためている計画を話すと、緒方氏は、「インテリには、そんな事は出来ないだろう」

 希望的計画は自在にたてられるが、いざ実行となると、公衆の面前で21日間の断食座りこみを続けたとき、緒方氏はその徹底した行動にびっくりしたのであった。

 このあと、国家の安定勢力結集の国民運動について、国家統治の最高権力が国会であると憲法で規定しているが、現代の政府媚び諂いの政治家国会を構成している政党議員の非行、選挙のチャンピオン化している政党人立法司法の虜、国民思想行動の不正を監視監督する即国家の安定勢力を組織しなければならない。と論じあったが、緒方氏と私の具体的見解は一致した。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/07(土) 06:27:43|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)【続】

 「この三日間の議論で、君という人間がよく分かった。追放がとけたら僕は政権を担当できる政党に入って自分の考えを実行したいと思っている。その時には君も同じ政党に入って片棒を担いで貰いたい。君の才能をこの緒方につかわせてくれ。年令的にも社会的にも僕の方が先んじている。だから、僕が君の智慧と行動力を借りる事になる。いいかね」

 緒方氏は神妙な顔でこう切り出した。私はこの意想外な言葉にきょとんとした。緒方氏が私を思いの外高く評価しているのに驚いたのである。

 「君は郷里から出馬するんだろうね」

 緒方氏は私がよろこび勇んで国会に出るものと思いこんでいるようであった。

 「君は経綸識見と哲理をもっているのだから政治家になるべきだよ。独立後の日本には、有能な政治家が必要だ」

 「敗戦後の日本には僕は民衆組織が最も必要だと思います。西洋文化模倣と立身出世の為に眩惑され、主体性独自性を失った日本人に最も必要なものは民族の本質を自覚させる事である。
  そして、自覚せる大衆を組織し、大衆を高め、大衆の力を結集する以外、社会、国家を正し向上させる方法はないと思っております。
  これからの日本の運命は民族の総自覚にかかっているのです。一握りの政治家の力では、どうする事も出来ない時代が占領後やってくると思います。」

 私は本来政治家を志し、その道を歩んで来た男である。当然、緒方先輩の考えを受けるべきであった。もし私がビルマで敗戦しなかったら、また敗戦の原因が結局立身出世と西洋文化模倣によるものでなかったら、おそらく私の方から進んで手を差しのべた事であったろう。私が国民大衆を教導して一つの革新理念を普及徹底し民衆を高めようとするのは、それ以外に日本の政治的思想的開化がないと考えていたからである。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/08(日) 13:36:18|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(三 国家安定勢力結成と緒方竹虎の見識)【続】

 この日、この問題はこれまでで打切って別れたが、緒方氏の胸にはこの三日間の討論が、つよい印象となって残った。後日緒方氏が政界に復帰したとき、氏は私に云った。

 「僕が責任ある地位についたら、一体になって国家百年の基を築こうじゃないか」

 緒方氏は生前中3度選挙があった。選挙の度、私は呼ばれ立候補をすすめられた。最後の緒方内閣実現の前夜は緒方内閣は戸松内閣である、君の手腕と力量を私に貸してくれとまで云われたのである。この時は、緒方に生命をかけようと決意した。

 その後先生は五反田の邸に移られ、事ある度に訪問し座談の客となっていた。或る日国民運動の重要性を話していた時、だまって立上り「家宝よりは国宝が大切だからな」と云って家宝名刀一振を差出された。「これを国民安定勢力結集運動の資金にしてくれ、将来金が出来れば買い戻したいが、勿論相手が手放したくないといえば仕方ないが」と云って手渡された。緒方は最後にジャーナリストには理論家は多いが思想家、時に国学者は居ない。時間をかけて天皇論と神道教典を書いて普及して呉れ。又国民精神統一の国教(昔は天皇)のない戦後の今日、国家の安定勢力を結集し、国家、議会政府(立法・司法・行政)の監視監督にあたってくれ給えと云った。

 この刀を抵当にして、安岡先生の紹介で大阪天業社出間照久社長から生存法則論を出版し、引続き國乃礎機関紙一万冊づつ5回出版して全国運動を展開した。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/09(月) 06:25:15|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(四 マッカーサー司令官への断食歎願運動)

 昭和22年10月1日より21日迄3週間断食歎願を行うため、司令部近い西銀座公演交番裏側に陣取り、戸板で囲み天幕を敷き看板を立て、

 「無賠償・七箇師団存置・食糧三百萬頓輸入放出」

 戸松慶議会長と村上隆喜副会長2人が断食に入った。

 運動目的、趣旨を10月1日総司令部民政局に届出た。司令部から毎朝夕憲兵が写真機その他の器具をもって調査に来る。同じく築地警察から小川警官が朝夕激励に来た。かくて10月16日司令部より21日午前9時面会の許可通達あり、あまり、衰弱せぬようスープを摂るよう注意があった。マッカーサー司令官室から離れた所に2人の大佐副官が立っていて取次ぐような会談であった。一言ごと水で咽喉を潤さねば発生できないので副官等はコップに水を用意して会談を重ね、要請事項は司令官の回答を伝えるのであるが賠償の件はソ連が鉄道レール客車貸車の要求があるので表向き回答を避け、軍隊の存置は講和条約後国民の意思で決定せよということであった。

 午後2時国民に結果報告することにしていたので、一時頃既に満員となり銀座裏は歩行できぬ程人垣で埋った。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/10(火) 14:59:41|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(五 第一回 全国大会 於 京都大徳寺:安部磯雄先生逝去)

 昭和24年陸軍記念日の3月10日前後、三日間大徳寺で大会を開くこととし全国の同志60名に大会の通知を出した。2月10日朝から大阪で機関誌の創刊号の校正をした。夕方大徳寺に帰ると急に発熱し、疲労が重なり休養するつもりであったが、何か胸騒ぎがし帰京の思いが募り夜行列車で京都を発った。翌朝熱海で下車、駅前の温泉場で熱も疲労も洗い流すつもりで湯につかっていた。入浴のあと熱海に住む徳富蘇峯先生を訪問した。

 「京都で全国大会を開く準備の帰途ですが急に先生にお会い致したくなってお邪魔いたしました」と云った時翁は「今あなたは何をしておりますか。気にかかり知りたいと思っていましたよ」と云って、ふと何事かに気付いたた表情になって「あなた昨夜安部先生が亡くなったので東京に帰られたのでしょう」

 「えっ!」と立ち上り、挨拶もそこそこに徳富邸を出た。

 安部先生は私にとって単なる教主先輩ではなかった。20年来親子関係であったといった方が実感である。人生に於ける曲角角に立って方向指示した人であった。満鉄入社の時も、荒木貞夫大将を紹介して陸軍省に入る時も、南京政府行政院周仏海院長と支那事変解決運動を開始した時も安部先生が仲介している。長男の民雄氏と争った時の先生は親以上の態度であった。

 あわてて帰宅して着替え妻と二人で江戸川アパートの玄関に入った時は弔問客で埋まっていた。その日はお通夜で遅くまで先生のそばにつきそっていた。

 安部先生の葬儀は飯田橋の教会で行われた。

 告別式の松岡駒吉氏の弔辞が哀惜の情切々と述べられた。厳粛にして優雅、多くの参列者の魂が渾然ととけあい洗い清められ高められてゆく、これまで何度か経験して来た告別式には感じられなかった感動に身震いし涙で泣きぬれた。おそらく先生の肉親の誰よりも悲しく泣いたのは私等夫婦であったろう。

 松岡氏の語る先生の思出は社会主義運動の離合集散の危機に立った時、日頃温厚な先生が厳然として劇しく叱咤した。「豆を煮るに豆殻をもってす。豆釜中で泣く。元これ同根ならずや。議論は自由である。主張の強弱はあってもよい、然し越えてはならぬ一線を越えて争うべきでない」これが安部磯雄である。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/11(水) 15:09:04|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(五 第一回 全国大会 於 京都大徳寺:大本教の救助)

 2月の末石井将男と京都に降った。元満鉄の大連鉄道局石関局長の兄(正金銀行香港支店長)が大阪掘抜帽子の重役をしていて社長を説いて大会費10万円寄付してくれる事になっていたが、東京に帰った10日間に社運をかけてアメリカに輸出した大量の物品が不合格品として全部返品され社内は騒然としていた。会社の存立に関する危急の際である。約束の額は期待する事は無理である。断念して会社を出たものの途方にくれ立ちすくんでしまった。「何という不運だ」最早相談する当てはない。

 「こうなったら神に助けを求めるよりほかない。奈良の天理教か、京都の大本教か、大本教は京都の亀岡にある。近い方から行こう」。而も大本教には満鉄時代の西村、黒川の同僚がいる。翌朝亀岡の大本教を訪ね、西村、黒川に頼んで、出口教主邸に案内していただき教主にお会いした。一室に通されて待っている間黒川、西村は入信のための訪問であろうと思ったらしく教団の自慢話をした。

 伊佐男教主は和服で静かに入って来た。「実はお願いがあって参りました。黒川、西村の両氏にはまだ申し上げて居りませんが、国家再建の国民運動に奔走しているが資金難に苦しみ、第一回全国大会の費用を約束した堀抜帽子会社が倒産の危機に遭遇したため、大会を直前にして困っている。初めての大会ですので地方の同志は皆希望をもって集まって来ます。是が非でも実現したい。この苦境は時間的に会社や人の力では間に合いません。神の力に頼るより外ないと思って参上致しました」。黒川、西村は狼狽し、迷惑な奴を教主邸に連れこんでしまったといわんばかりの表情に変わった。「一体どれだけの金がいるのですか」と黒川が苦りきった顔で聞いた。「帰りの旅費全員に支給する事になって居り三日間大会費合せて実費5万円ほど必要です」

 「どうです。皆に大会延期の電報を打ったらどうです。その位の金ならば私共で用意しますが」「大会をどうするかについて相談に来たのではない。金の相談に来たのです」「大本教は先年一度ならず二度まで弾圧され、今皆んなで再建にかかっている時です。金は幾らあっても足りません、今の大本教ではどうにもなりません」。西村も「現余裕があったとしても出す事は出来ませんな」

 私は望めないと諦め、唯伊佐男教主の返事を待った。伊佐男教主がおもむろに口を開いた。

 「戦前から長期にわたって司直の弾圧を受け占領軍が入ってやっと復活をゆるされて復興の途についたばかりです。占領軍は宗教団体の政治的活動を恐れております。今貴下がやろうとしている運動に金を出したら、政治的野心あるものと疑われ、今後は占領軍に解散させられる事になります。私としては出してあげたいのですが、そういう事情でどうにもなりません。出す事は出来ないのです」。

 「大本教の神様は、占領軍マッカーサーが恐いのですか、そんな神様なら人を救い世を救う事など出来ないでしょう。放屁一発活を入れずばなるまい」と放言した。

 黒川、西村は動揺し青ざめた。教主は二人をかばうように「あんた達は明日の行事もある事だし、話も結論に達したから引取って下さい。もう京都行の列車はないし、客人二人はこちらへ泊ってもらいます」と黒川、西村を促すようにして立ち上った。二人を玄関まで送って部屋に戻った。5分たっても10分たっても誰も出てこない。2、30分たった頃唐紙がさっと開かれた。教主の異様な態度に圧せられ身構え姿勢を正した。教主は衣冠束帯で眼をらんらんと光らせ神がのりうつったかと思われる威厳と迫力に満ちてテーブルの前に正座すると「戸松さん今あなたに大本教の御神体をお目にかけましょう」懐に手をつっこむと札束を取り出しテーブルの上に置いた。私は思わず「参った」と頭を下げ感激と喜びに震えた。教主はおもむろに説いた。

 「策する者は一対一だ。私は信頼する部下さえ退けて貴方と勝負したのです。今後も秘密を守る事が、事業の大成不成を決定するものである事を知っていただきたい」。

 これは教主の永久に尊い教訓であった。数年後教主が亡くなった時、私は恵んでくれた資金全部を彼の御霊前に備えた。伊佐男教主は教祖と共に数年間監獄に閉込められた間一度も床に寝ず、教祖を仰ぎ乍ら坐禅のまま夜を徹したという無類の強烈な意志の人であった。

                                   続 く

 

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/12(木) 09:49:20|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(五 第一回 全国大会 於 京都大徳寺:大本教の救助)【続】

 こうして大会の準備はととのった。3月9日の夜には半数が到着し、当日朝までには41名がそろった。篠原恒雄は掘抜帽子の件を知らせてあったので前田正雄代議士と相談し大会費用半分を用意して来ていた。同志は北海道から九州に及ぶ全域からの顔ぶれであった。彼らはそれぞれに生活の建て直しに苦闘していたが、公のために馳せ参じようという気概だけは失っていなかった。

 占領という名のもとで、他国の意のままに国造りされていく事に不安不満をいだき、主体的な何かを打立てていかねばならぬと思う日本人は数多くあったであろうが、こうしてすぐさま立上ってくる純粋で勇気ある者は、そう多くいる筈はなかった。なにしろ、利得主義と俗悪化が、日増しに募るばかりの頃であったから…。

 とにかく、集まった41名の志士たちは、このとき、疑うまでもなく純粋であった。本気になって国の建設を考え、理想国家の建設を夢みていたのである。

 理想への階段ははかり知れないほど遠いが、とにかくその一段階を画する事が出来たのである。私はやろうと考えた事は、必ず実現せずにはおられない。血のにじむような苦労がともなうほど、実現の喜びは大きいのだ。大阪に居た佐郷屋嘉明氏も篠を突く豪雨の中かけつけて来て協力してくれた。

 さて、当の大会では、熊本の永鳥義高が議長になり、石井が司会し、私が議案を提出し主旨を説明して、内外情勢の分析、当面の運動方針などが討議され、さらに国際社会復帰後の日本像および世界的役割などが論ぜられた。

議決事項4項目
1.全国都道府県に於て「日本人の条件」を主題とし国家分裂主義者共産党、敗戦利得者左派社会党解散
2.朝鮮人連盟解散、朝鮮人は朝鮮に帰れ
3.西洋思想生存競争主義(物質文明)に対し、東洋思想の精神文化の対決と日本思想(生存法則)の自然の理法の宣伝普及
4.国家の独立自存
 ○府県庁所在地に於て街頭演説し、国民運動を展開する。宿泊は神社・寺院・食事自給自足
 ○運動資金の確保は機関紙頒布
 ○各県に点・線・面の組織を編成する
 ○運動の眼目は、西洋思想の存在競争(優勝劣敗、適者存在、弱肉強食)対する、生存法則(宇宙理法に随順する人間性・倫理道徳)であった。

                                  続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/13(金) 10:57:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(五 第一回 全国大会 於 京都大徳寺:大本教の救助)【続】

 さて、大会後、地方の人々がひきあげたのち、長野の牧田、熊本の永鳥大助、長崎の坂上、秋田の藤島、柴田、戸松貞夫、京都の立垣らが残って、会社の経営者と労組対象の二元工作をする事になった。

 このころ、アメリカ資本主義の勢力下にある企業側と、ソ連共産主義の影響下にある労働側との対立は、いよいよ激しさを加えてきて、この国を二つに分断する危険に向う傾向をみせはじめていた。民主革命勢力の台頭は、第二次世界戦争後の世界に共通した現象であって、進歩的な知識人は、これを人類進歩の方向であると宣伝していた。

 ところが、或る事件で松本明重を取調べた検事正中村昇氏が我々の運動に賛同し、学友同志の木崎為之氏を紹介し、木崎弁護士会長に会った時「おおっ戸松さん、大阪中に網を張ってあんたの来るのを待っていました」と彼は立上って両手を弘げて迎えた。大徳寺大会後岩田愛之助、森孫治郎、木崎為之、中村昇、松本明重等の協力を得て関西(大阪堂ビル8階)を本拠に全国国民運動する事にした。丁度その頃大会に参加した地方の同志から色々様々な要望や希望が寄せられて来た。「指令を発せよ」「機関紙の続行を望む」「全国遊説隊を派遣せよ」など大会が燃え上がった火が今ようやく地方に点ぜられようとしていた。

 この堂ビルの9階の一室を本部としている時、インパール戦の安東恒夫部隊長が最後の引揚帰還軍人として挨拶に見えられた。安東部隊長は、武士道を貫いた偉人であった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/14(土) 00:38:50|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(六 第一回全国遊説)

 遊説隊出発に当り、機関紙、パンフレット、趣意書の作成の費用は全部木崎為之氏が出資してくれた。

 秋田から弟貞夫、柴田、武夫、長野から牧田、笠原、京都の立垣の編成で中支軍司令部の先輩熊本市在住の永鳥義高氏を頼った。

 一行をむかえた永鳥氏は「おおっ、待っていたっ」と声を挙げた。

 翌31日軍政部の許可を得、勇躍街頭演説会場熊本日日新聞社前広場で第一声を放った。

 聴衆は演説がすすむにつれて共感の渦が高まり、機関紙は瞬く間に全部売れた。

 第2回目は場所を変えて行い、ここも大成功であった。

 6月1日も午前中熊本日々新聞社前広場で行い、夕方本願寺に於ける演説会は聴衆満員6、700余、地元の小田一成、櫛山弘氏が演壇に立った時、共産党員が一言ごとに弥次をとばし会場は騒然と色めきたった。

 これをおさえて私は1時間半演説した。聴衆は一節ごとに拍手をおくり、熱っぽい空気が会場にあふれた。

 聴衆の中熱心な人を組織化し強大勢力をつくるのが全国遊説の目的である。

 旧来の同志の自覚を深め、福田常雄氏、その弟清島又雄氏、永鳥義高等先輩が高田大三氏に熊本市の支部長を引受けてもらう事になった。

 後に有力な尾藤新士・高尾富繁が県連会長になった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/15(日) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(六 第一回全国遊説:鹿児島翌六月二日)

 鹿児島にて天皇巡幸に会す。北支特務機関時代の丸尾氏を訪う。彼は商用で東京出張中で不在であったが夫人が何くれと心を配り、我々一行を慰めてくれた。6月3日巡航中の天皇が港から鹿屋にお発になる日で市民は黒山の如くその盛大さは想像以上で御出立を見送っていた。我々は御立になったあと見送りの大衆をとらえ「皆さん暫く足をとめ我々の話を聞いて下さい。天皇陛下は国民の皆さんに対して演説講演する事は出来ません。天皇陛下に代って我々が天皇の大御心をお伝え致します。

 天皇の巡行は巡礼であり励ましであります。戦争に敗れ疲弊困難苦難に喘いでいる国民を激励し奮起させ、民族道統固有性を尊び、勤険力行国家再建に奮闘努力を願望する、という事であります。」人々は感極まり、話おわっても呆然として立ち去るものなく、機関紙、趣意書は忽ち全部売切れてしまった。第2回目は天文館通りで行う事を予告してひとまず丸尾宅に帰り休息し2時間後出かけてみると、聴取はすでに集まっており、十字路の交通が一時止まるという状態を呈した。共産党の地下委員会の幹部が熱心に速記をとっていた。それに反し真面目に質問する青年や宿まで尋ねてくる高校生等反響の大きかった事は流石は鹿児島であった。6月4日も場所を変えて5回演説し最後再び天文館通りに出た。とうとう交通を中断するという事になった。5日は肝付半島の垂水、鹿屋に前進し、奥誓ニ市長、鹿屋市永田良吉市長は2年前園田幸撰の選挙以来の関係もあり熱狂的協力もあって組織ができ上った。

 この頃から九州共産党の注目するところとなり、やがて彼らはむき出しの敵意を示す事になった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/16(月) 10:53:08|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(六 第一回全国遊説:宮崎県都城七日)

 中支軍司令部時代の戦友池田睦喜氏が駅まで迎えに出ていた。この日は大雨降りで全身びっしょりぬれ、彼は「戦後われわれは自分の生活の事で精一杯なのに、あんたは国家や社会の事を考えて活動する。偉いものだ」と私の顔を見乍ら言った。「あんたは希世の人物だ」と繰返した。池田氏は演説会の準備をととのえていた。場所は商工会議所で、各方面に連絡がとってあった。8日の午前中街頭演説に出、柴田、笠原、立垣、私の順で開始、人垣は忽ち100人を超え、交通整理に警察が駆け出してくるほど、道を埋め尽くした。話が終って息をのむようにして聞いていた人々は争って機関紙を求め飛ぶように売り切れた。

 その夜商工会議所で開かれた演説会はヤジが機関銃の弾の如く放射され戦闘開始となった。「反動!逆コース!ファッショ!ヒットラー!軍国主義!右翼!」が乱射された。

 ゾルゲ事件の分析、共産主義者の謀略によって、本来日独連合軍で東と西から蘇連を撃滅する作戦が、米英国と大東亜戦争に引張り込まれたのであると彼らの攻撃を一つ一つ粉碎して行った。

                                   続 く

 

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/17(火) 13:38:25|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(六 第一回全国遊説:大分県別府市六月九日)

 県庁所在地大分市には知人なく、警察の指示により別府市の反共連盟の尾無安右衛門氏を紹介してくれた。尾無氏は快く引受け、彼は旅館の経営者であるので宿泊も引受けてくれたばかりでなく、翌10日市長や市会議員、商工会議所会頭、その他知名士等紹介し11日夜公会堂で演説会を開くように準備してくれた。10日も11日も街頭で演説しその度ごと3、400人の聴衆者を集め嵐のような拍手を受け機関紙を頒布した。この夜は会場は満員になり、尾無氏の準備工作が、いかに力の入ったものか知らされた。彼らの演説に耳を傾けていたせいもあろうが遊説隊の柴田も笠原も一段と冴えた演説をした。柴田の演題は(精神の武装)笠原は(日本人の条件)私は(世界史の流れと思想の沿革)であった。

 この時のもようを、柴田哲男は次のように記している。

 「聴衆は酔えるが如く音なく、隊員が降壇するや、はじめて我にかえったように拍手の波を送り、堂もゆらぐかと思われた。この日の隊長の演説は、内容の深さとその迫力において、熊本いらいの最上のもので、まったく驚嘆にあたいするものであった。

 その国家民族救済悲願のもえるような情熱には、同行の隊員すらつよい感動にうたれてしまった程であるから、はじめてきいた別府市民の感動は大きかったに違いない。

 感銘した国立病院長が応援演説を行い、また共産党の民主擁護同盟のバッチをなげすてて、会員にしてくれと言ってとびこんでくる青年もあり、全員入会すると申込む団体などもあって、暫時興奮のるつぼと化した。

 変り種はCICの隊長(米人)で『私はこれまで何度も演説を聞いたが、今日のような演説会は見た事がない。あれほど大衆に感動を与える指導者は、アメリカにもあまりいないと思う。私は日本にいる間、あなたの団体に入会しますから、手続きさせて下さい』というのには、驚かされた。

 これほどの大演説は、隊長といえども度々はなし得ないであろう。おそらく生涯のうちで最大の演説の一つとなるであろう。」

 確かにこのときの演説は、私にとって生涯わすれられないものになった。精神的にもこの時代がもっとも充実していたのであろうが、一つには、占領下の国家の貧困と亡国的風潮の中で、切実に民衆の奮起を求める情熱が、会場を圧し人々の魂をうったものであろう。

 我々は翌朝、5時別府発長崎行の汽車に乗り込んでいた。

                                   続 く 

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/18(水) 14:14:15|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)

 駅頭には大西一栄夫妻が出迎えており、宿は中国時代の松下輔氏が、樺島町に旅館の一室をとっていた。松下は戦後、五島で水産物の加工を専業としていて、鹿児島の園田も、五島と鹿児島で塩と海産物の取引をしていて、この時は資金をもって出向いてきた。

 14、15日は、五島にいる彼らのところへ、柴田が連絡にいったり、園田が旅費をもって駆けつけてきたりで、外面的な運動に時を費すことなくすぎた。松下も園田も、中国いらいの同志であるから、助力する方も受ける方も、肉親的であった。

 明けて16日、県庁付近を出初めに、各所で5回の演説を行った。この町ではその度毎に、共産党の抵抗妨害があった。最後の岡政デパート前では、妨害はいよいよ暴力化してきた。

 笠原の演説がもう少しで終ろうとするとき、数十名の朝鮮人連盟の幹部を交えた一群が、トラックに乗ってどやどやとおしかけてきた。

 「おいっこらっ、でたらめな演説をやめろ」

 「この演説はあと5、6分で終る。終ったらゆっくり交渉に応じよう。しばらく待てっ」と隊長はこれを制した。

 いっとき鳴りをひそめた彼らは、すぐに又口々に罵詈罵倒をはじめ、互いの声に刺激されあって、狂ったようにわめきつづけた。

 町はもう、身動きならぬほど、黒山のような人だかりである。好奇心にかられた一般市民が、問題の機関紙を買い求めようとして、販売係の貞夫の周囲をひしめき集まってきた。

 またたく間に機関紙は全部うりきれて、貞夫は群衆にもみくちゃになりながら、宿まで取りにかえらねばならなかった。

 私は朝鮮人連盟や日本共産党の一群に囲まれ、罵詈罵倒の怒号をあびながら、最後まで笠原の演説を続けさせた。終ると、柴田らに向って、

 「君らは明日の準備もある事だ。交渉は俺一人で沢山だ。宿に引き揚げていてくれ」とどなった。

 その時一人の人物が近づいて来て私に何事か一言二言耳打した。(それは下条警部である事があとで分かった。後年彼は諫早の警察署長となった。)

 そこで、野犬のようにわめいている軍に向っては、

 「ここでは解決つくまい。すぐこの近くの交番で話を聴こう。多勢いっしょにわめいていても、耳は一つしかないから、聴き分ける事は出来ない。一人ずつ話してもらおう」

 大声で叱咤しながら、交番に向って歩きだした。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/19(木) 15:59:26|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 交番になだれ込んだ朝連の群は、やはりここでも狂気じみた昂奮ぶりを続け、とても冷静に話し合える状態ではなかった。そのうちに日共の幹部らしい一人が、交番の窓に腰かけて演説を始めだした。

 「ここで演説されては困る。やるなら許可をとって街頭でやってもらいたい」

 警察側もついに怒って、共産党員をひきずり下ろした。それは彼らの狂気を一層あおりて、手を振り足を踏み鳴らし、てんでに喚く騒ぎは、誰の手にも及びそうにもなかった。

 私は両手を組んだまま、椅子にかけて彼らの様子をじっと見つめていた。こうして彼らが静まるのを待っていたのである。頃合を見はからって、警察側が両者に提案した。

 「双方から代表をだして交渉したらどうだ。このままでは解決つかんだろう」

 「そうするより方法があるまい。各代表を一名ずつだして交渉にあたろう。私の方からは私が出る。日共から一名、朝連から一名出て、解決にあたる事にしよう」

 すぐさま私は賛成した。場所は朝鮮人連盟長崎県連合支部事務所に、時間は30分のちの午後6時と決めた。一応宿にひきあげていく遊説隊を、朝連は後ろからしつこく見張り続けていた。

 私はひどく疲れていた。20日ちかい遊説の旅で疲れぎみのところへ、この日は4、50分づつ5回も街頭で演説したのであるから、精も根もつきたような思いであった。

 本人は平然としているのだが、まわりの人達は青ざめていた。警察でさえ手を焼いている朝連の事であるから、どんな目に合わされるのか、分かったものではない。警察の下条警備課長も、2、3人で行くようにとしきりに勧めた。しかし、一名ずつという約束を守って、私は単身で出かけて行った。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/20(金) 13:04:54|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 丁度6時、約束の時刻に私は朝連事務所に入った。

 交渉が始まったのは6時20分。約束では代表朝連1人、日共1人、大和党(國乃礎)1人、1名ずつで話合う事になっていたのに、卑怯にも彼らは、傍聴という名目で婦人まで交えた7~80名が、ぎっしりまわりに詰め寄ってきた。

 彼らが怒っている理由がやっと理解された。それはこうであった。

 機関紙「世界と日本」の21頁に、「共産党の実体調査」という一文がある。その中に朝連人連盟が徳田球一等に資金援助をし、日共とともに政権破壊工作を進められていること等が、朝鮮人より内通された、と記されてあった。

 彼らはこれを事実無根であると主張し、謝罪するよう要求しているのであった。

 彼らが捺印をせまっている謝罪文には、反共的な遊説を即刻中止して引揚ること、パンフレットや機関紙の発行を停止すること、現有のパンフレットや機関紙は、全部朝連に引渡すこと、等々が列記されていて、圧力によって朝連および共産党批判を止めさせようというものであった。

 事実無根ならば、彼らが怒るのも当然だ。だが「世界と日本」創刊号の書かれた23年の暮は、公務員法改正など、労働政策の転換をめぐって、院の内外で吉田内閣打倒の声が渦まき、一方中国では共産党の完全勝利が決定的であると伝えられ、何が起こるか分からないような、無気味な空気がみなぎっていたことは事実であった。

 彼らが問題にしている記事の情報は、元早稲田大学教授で衆議院議員をしている北一輝の弟北玲吉氏から出たものであった。情報の出所が信頼のおけるものであったから、これを緒方竹虎氏を通じて、吉田首相に送ったほどであった。

                                  続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/21(土) 08:47:14|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 謝罪文を瞥見したまま、冷然として捺印しようともしないので、彼らはいよいよ腹を立てた。

 「暗殺計画をたてたのは朝連の誰だ」

 「それは知らぬ」

 「どんな方法でやろうとしたのか」

 「それも知らぬ」

 「知らぬのに何故でたらめを書いた」

 「具体的な事は知らん。そういう情報をとったので、これは容易ならぬ事だと思って警告する意味で書いた」

 このとき、窓際の背後にいた7~8人の中の一人日共党員の吉村初二という青年が、「それでも貴様は日本人か。手をついて謝まれっ」と、怒鳴った。

 朝連の強迫には冷静に応対していたが、この吉村初二の怒声には、むっと腹が立ってきた。私は後向きになって、吉村の顔を睨みつけた。

 怒声や強迫だけでは謝罪文に捺印させる事が出来ないと知った彼らは、こんどは手を変えて、物理的圧力でせまってきた。

 短刀をつきつけ私の心臓の上で前後のピストンのように動かしつつ突き破るぞと脅かすのであるが、それに目もくれず、相手の目を睨みつけながら、貴様の名は何という、年は何歳になると、怒鳴るのである。それに威圧されたか5~6分で退いた。今度はシェパードを引連れて来て噛みつかせようとする。訓練された犬だと見えてワアッワアッと前足を揃えて胴体を前後に動かしながら牽制し嚙みつこうとする。退いたらとびついてくると思ったので、その度ごと私も胴体を動かして前に進みながら犬の目を睨み続ける。嚙みついたら口から手を突込み咽喉に圧迫して撃退するつもりであった。15分ぐらいでクーンクーンとうなりながら退散した。

 時間がたつににつれて、彼らがますます苛立ってくるのが分かった。下条警備課長も出がけに一人では危い、これまでも朝連事務所に行ったまま帰らないのが何人かいる。出来るだけ沢山で行った方が安全だと言っていた意味がやっと呑み込めた。

 謝罪文に捺印をおせばそれまでの事であるが、朝連に強迫されて屈服し、遊説を中断して逃げ帰ったとあれば、運動の歴史に汚点を残す事になり、今後正々堂々と、運動を進めていく事が出来なくなる。私は決然として大声で叫んだ。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/22(日) 12:48:59|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 「死んでも君らの要求を入れる事はできんっ」

 怒声罵声が一かたまりになって爆発した。すると、彼らの代表が必死になって仲間の怒声をおさえ、一変して調子をやわらげ、情報の出所を追求してきた。私は元早大教授・国会議員である北玲吉氏に迷惑のかかる事をおそれて、正答をさけ、京都の宇佐美と佐郷屋嘉昭の二人をあげた。

 再び罵言罵声、強迫が始まり、時間は遅々として流れた。8時となり、10時となり、12時となった。その間、6時間にもなるのに、一向に交渉は進展しなかった。

 一時に近くなるころ、見上げるような大男がでてきて、脇腹に短刀をぴたりっと突きつけて、再び短刀の強迫である。

 「この手がぐっと動けば、お前は即座に死んでしまうのだ。強情をはるのもいいかげんにして、この紙に捺印をおせっ!謝罪すれば解放してやる」とすごんだ。

 とっさに、すっくと立上って巨漢を睨みつけ叱咤した。

 「貴様は何処の何者だっ、名をなのれっ」

 この大男、見かけほど肝っ玉は太くないらしく、逆襲にど肝をぬかれてのそのそと退却した。このあと、何人かがさまざまの方法でせまってきたが、いづれも強硬さ辟易して、退くありさまであった。

 ついに彼らは総勢で、拳をかためて、口々に叫びながら攻め寄ってきた。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/23(月) 13:23:22|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 共産党員吉村は耳に口づけせんばかり近づけ耳もとで突然バカヤローと大声を発するのでびっくりし、甚しく気が立つ、神経はやられ腹が立つ。「この男、気違いだっ」「ヒットラーだっ、東条だっ」「軍国主義」「反動逆コース」「戦争挑発者だ」

 「よしっ、一部訂正の上捺印してやるから、ペンと朱肉をもってこいっ」

 瞬間どよめきがおき、興奮が渦巻いた。朝連の一人が、す早くペンと朱肉を運んできた。

 8カ条からなるその謝罪文をじっと見つめていたが、ペンをとると、「朝鮮人を鮮人と言わぬこと」この1カ条を残してあと7カ条を全部消して、その上で拇印を捺した。

 「おおっ」と、彼らは驚きの声をあげた。さんざん威したあげくがこの有様であるから、気勢をそがれてしまって、彼らはしばし呆然としたままであった。時計はすでに2時をさし、8時間にも及ぶ対戦に、彼らもへとへとになったものであろう。

 一方、あとに残った柴田らは、万一にそなえ、手をわけて対策にあたった。警察に行くもの、CICに行くもの、土地の有力者に行くもの、考えられる手はことごとくうった。

 柴田は朝連事務所の周囲を這いまわって、内部の状況を偵察しては報告した。この報告によって長崎警察署の武装警官が100名あまり、トラック2台に分乗して朝連に向って出動した。遊説隊員も全員、大西氏のオート三輪に乗って、朝連事務所に向った。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/24(火) 09:58:50|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 警察との話し合いで、一応迎えに隊員を派遣する事にした。朝連が拒否すれば、その時こそ、警察が実力行使する番である。派遣員に指名された笠原は、精悍な顔を氷らせて、すたすたと朝連事務所にはいり、部屋に入っていった。

 「おいっ、お前らはいつまで隊長をとめておくつもりかっ。俺は迎えにきたのだ。返してくれっ。返さねば勝手に連れ帰るまでだ。どうするか、はっきり返事してくれっ」

 笠原の声は号令のように響きわたった。そしてその態度は、堂々としていて、しかも強硬であった。

 朝連が疲れてへたばるまで、持久戦でいく覚悟でいた私は突然の笠原の交渉があまりにも強気で見事なので、笠原の傲慢な態度は、朝連と日共を烈火のごとく怒らせるに違いない。いよいよ収拾つかなくなるだろう、と見ていると、意外な事に、彼らは鳴りを潜めたまま、こそこそと小声で話し合ったのち、代表が私と笠原を見比べながら、伺いをたてるように次はどこで会ってくれるかと言った。

 いったいこの変化はどうした事だ。9時間ものあいだ自分を悩ました彼らが、笠原の出現によって、一たまりもなく崩れてしまったのである。

 午前10時に公安委員室で交渉を再開する事にして、2人は外に出た。もはや夜明けも近い時刻であった。

 2人を見て、柴田や松下や園田や大西氏などがばらばらと駆け寄ってきた。驚いた事には、木陰や物陰に、警察部隊やアメリカのMPたちが、多数待機しているではないか。ものものしい大事件になったものだと思った。朝連や日共が、急に怒勢を失ってしまったのも、おそらく外部の状況に気付いたからに違いない。

 私は警察に立寄って、一部始終を説明し記録を取らせたのち、宿に帰って約束の時間までぐっすりと寝た。

 10時に公安委員室に駆けつけ、今度は代表3名づつ出して交渉する事になった。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/25(水) 10:50:13|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突)【続】

 警察側を仲裁者として話し合ったが、ここでも交渉は一向に進展しなかった。朝連側は今日は人が変ったように大人しく、荒々しい言動はなかったが、今度は日共側が、彼らに変って、しつこく何時までも食い下がってきた。

 あげくの果てには、仲裁者の警察側にまで、出版規則をふりまわして迫っていったが、そんな事は我々の権限外の事だと、にべなく撥ねつけられてしまった。とりつく島を失った彼らは、腹立たしそうに荒々しく立上り、「この次は法廷で闘争だっ」と、捨台詞を残して立去って行った。

 戦後の一時期、このような彼らの横暴を許していたものは、外ならぬ敗戦国民に転落した、日本人の虚脱と無気力であったというべきであろう。それをひしひしと感じていただけに、最後まで屈服しなかったのである。

 この日の午後、CICに招かれて事件の報告をした。この年の後半から、占領軍は急速に反共政策に転回していったのであるが、朝連のこうしたヒステリックな行動は、やがて彼ら自身をしばる結果をつくったのであった。戦後のどさくさの一劇であったが、これは現代日本社会の相剋を象徴する事件でもあった。

 柴田哲男は、日記の最後を次のように結んでいる。

 「長崎事件は、そのご各方面から非常に重大視され、ことに我らの郷里秋田県の朝連との激突を加え、いよいよ事件は重大になっていった。これからが問題である。これからさまざまな試練が我々を待っている事であろう。何もかも犠牲にして、自らも飢餓を忍び、歯をくいしばって我慢しなければならぬ日が続くであろう。我々は他日を信じ、威武に屈する事なく、節度を守り、健やかに生きぬいていこう。この試練に耐えぬいた者が、日本百年の礎を築き得るのである」

 数カ月後上京の際、頭山秀三氏を訪ね長崎事件を精しく説明した。話の途中頭山は膝をのり出し、物凄い形相になり、「その喧嘩勝ったか負けたか」と叫んだ。「勝ちました」と応えると元の座に姿勢を戻しながら「もし君が負けて帰って来たとしたら、俺が仇討に行かねばならないからな」と頭山は言った。頭山秀三とはつまりこういう人である。緒方竹虎先生の頭山満伝の序文に「誠の点に於いて西郷隆盛に優る者は日本史の中にはない。又力の点に於いては頭山満に優る者はない」とある。正に力の点に於いて当代またこの頭山秀三に並ぶ者はない、と頭山秀三氏を誉め讃えていた。男の中の男、将の将たる人物とはそういう人の事をいうのであろう。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/26(木) 00:54:57|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突:佐賀県庁所在地に知人なく唐津市)

 長崎を出る頃から雨が滝のように降りしきり、この雨は19日になって、暴風をともなって北九州一帯を襲った。

 私は過労の蓄積の上に、雨に濡れたため、佐賀県唐津市につくと発熱し、翌19日も床を離れる事が出来なかった。唐津市の知人島崎氏は別府の大会で知り合った人である。

 明けて20日もいぜんとして風雨は続いた。一夜の睡眠で熱も下り容態も回復し、而し街頭演説は出来ないため、せめて座談会でも開き遊説目的を果そうと柴田等はその準備にかかった。

 島崎氏は別府の街頭演説及び公会堂演説会で共感を深め佐賀県入りをすすめた人で、この人を頼って宿所とし、座談会もこの人の知人を集めて開き、そして島崎氏を支部長に組織化を計った。翌21日はデリー颱風による九州総嵐の日で全員福岡に向った。博多には進藤一馬氏の紹介を受けた藤野北辰氏がいた。

                                  続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/27(金) 08:51:39|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(七 長崎事件 朝鮮人連盟と激突:福岡県)

 6月22日颱風一過の晴天である。3日間の豪雨に河川は氾濫し、低地は水害に見舞われ、人々は颱風の後片付に忙しく立働いていた。柴田と笠原は反共連盟を訪ねて宿の斡旋を頼んだ。幹部の松本喜代平氏が引受け正光寺というお寺に交渉してくれた。柴田等は土地の運動家や警察に街頭演説の許可届を出したりしていた。午後藤野氏が在国寺又藏氏をつれて訪ねて来た。二人に対し全国国民運動の趣旨目的を一通り説明し、憲法改正、国家の独立、再軍備の充実を実現せねばならぬ、言論理論は方向を示し、行動実践が目的を達成すると説いた。両氏は感動し理解を示した。藤野氏は快諾した。彼は在国寺氏に視線をうつして「在国寺君、君は若くて活動家だから福岡の責任者になってくれ、君が適任だよ」「藤野さんがそういうなら引受けましょう。立派な国民組織をつくります」社会運動を志す男等の話は夜が更けても尽きる事がなかった。殊に占領政策批判、反共理論は最高潮に達した。

 「我々国民運動に今必要なのは行動と組織である。日本の運命は組織的行動によって決定される。組織的行動は理論と思想である。理論と思想は組織団体の研究と学習訓練である。理論の裏付ない行動、又行動を前提としない理論は単なる駄弁に終る。国家は文武両道であり、創造と統一であると共に完全なる独立自立である」と結んだ。

 6月23日は快晴であった。街頭演説は天神、警固神社、市役所前、県庁前、箱崎宮等数箇所で行ったが、毎回一言のヤジも批判も暴言もなく、300にも及ぶ聴衆は口々に激励したり名刺を求めたり思いの外共鳴ぶりであった。

 会場で宿泊所を世話してくれた反共連合の松本嘉代平氏が7月3日飯塚市(筑豊炭鉱中心都市)で共産党、朝鮮人連盟との立会演説会が開かれる事になっている。長崎事件を承っているので参加して立会ってくれ、共産党の方は反共連合の島津定康会長が出る事になっているという申入れに承諾した。

 九州地方は福岡を最後に中国地方山口県に入る。(山口・広島・岡山削除)

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/28(土) 10:15:06|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(八 飯塚市 共産党・朝鮮人連盟との立会演説)

 筑豊炭鉱の中心地、飯塚市に住む須藤真一氏を私が訪ねたのは、7月3日の昼ごろであった。岡山の遊説を終え、単身で九州に下ったのは、福岡県の反共連盟の松本清平青年から、3日の共産党・朝連とも立会演説に出場してほしいという依頼があったからである。この青年には、北九州遊説中に宿斡旋してもらった事もあって、快くひきうけたのであった。

 須藤氏は留守であった。朝から青年の一隊をひきつれて、住友、三井、三菱の炭鉱地帯を街頭演説して歩いているというのである。

 「夕方には帰って参りましょう。上がってお待ち下さい」

 夫人は未知の青年の訪問には馴れきっているのか、疑う色もなく、無雑作に座敷に通した。特別に客に気を使う様子もなく、自由で気楽な空気が家中に流れていた。

 私は庭に面した縁側で、持ってきた書物を読んでいるうちに眠気をもよおし、いつの間にかごろりと横になって、深い眠りに落ち込んでいった。込み合った夜汽車の疲れが、眠りの淵にずるずるとひきこんでいったのである。

 数時間たった。夕陽が惜別の思いをくれないに染めて没しきったころ、13、4人の青年の一隊が汗と埃にまみれて帰ってきた。

                                   続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/29(日) 07:55:36|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

第二 戦後の國民運動(八 飯塚市 共産党・朝鮮人連盟との立会演説)【続】

 私は松本青年と面識あるのみで、主の須藤氏とも他の青年たちとも、まったくの初対面であった。

 松本青年が私を紹介すると、須藤氏は「や、や」と、言葉にもならない挨拶をするだけで、遠方から駆けつけた労をねぎらうわけでもなかった。が、不思議な事に、朴訥なそぶりにもかかわらず、善意と誠意が全身ににじみ出ていて、人の心を温かく包みこんでいくものがあった。

 須藤氏は三島神社、菰田神社の二社に奉祀している神社で、隠れたる国学者でもあるから、筑豊一帯をふきあれている共産主義の嵐に、じっとしている事が出来なかったのであろう。同憂の青年たちのバックになって、彼らの運動を援けていたのである。いや、むしろ、青年たちと一緒になって、行動しているという方が、適切かも知れなかった。

 日本人の心が日本の神々に背をむけ、神神を憎悪の対象にしているとき、(このころ、共産党をはじめとする社会主義者は伝統の壊滅を叫んでいたし、創価学会も神道と神主を憎悪し邪教であると軽蔑していた。一般国民も又冷視し無視していた)須藤氏は決然とたって、神道人の面目を発揮していたのである。一見しては、そんな情熱をもちあわせている人間に見えないのだが、内面深く燃えている焰が、黙々と確信にみちた行動となってあらわれ、若者の心をひきつけ動かしているのかもしれなかった。

 氏のもとに集まってくる行動的な青年たちのために、住居の二部屋までも開放し、食事の面倒まで見ているのであった。この日も、十数人の青年たちは一座に集まり、にぎやかに夕食の箸をとった。夫唱婦随というか、病身だというのに夫人は事も無げに食事の支度をし、若者の面倒をみていた。人間のエゴイズムが蔓延しているこの時代に、こんな夫婦がまだ存在していたのだ。信念と情熱と奉仕に生きる人々が……夫婦が無口で挙動が素朴であるだけに、いっそう内面の香気がふくいくと、心に伝わってくるのであった。

 腹ごしらえがととのうと、一行は意気揚々と会場になっている公会堂にくりこんでいった。

                                  続 く

テーマ:このままで、いいのか日本 - ジャンル:政治・経済

  1. 2012/04/30(月) 06:00:00|
  2. 遺言状(救國法典) 戸松慶議著

プロフィール

國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
現行憲法廃棄
日米安保破棄

最新記事

カテゴリ

未分類 (6)
提言 (1)
理念と使命 (1)
目的・活動 (1)
遺言状(救國法典) 戸松慶議著 (660)
生存法則論 (第二巻 思想篇) 戸松慶議著 (3)
永遠の道 戸松登志子著 (2158)
新聞 (17)

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログランキング

にほんブログ村 政治ブログ 政治思想へ
にほんブログ村

ブログランキング

FC2 Blog Ranking

月別アーカイブ

アクセスカウンター

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR