いしずえ

第一巻春雪の巻

 十四日の午後、私達は再び米倉邸で会った。彼はこまを夫人と共に来、私は母をともなって行った。今日は母と彼の面会が目的である。

 母も彼も無口になっていて、何となく白々した空気であった。彼は母が結婚に反対したことを既にきいていたのである。

 米倉夫人のはからいで、彼と私は散歩しながらゆっくり話し合うようすすめられた。二人ぎりになることは何だか心細い思いであったが、彼の後について護国寺の方へと歩いていった。

 縁樹の多い墓地の中は、ひっそりと静まり返っていた。彼はすたすたと歩き、私はひかれる子山羊のように後に従った。このまま、黙ったまま、また米倉家に帰る気だろうかと思っていると、或墓の前で彼はぴたりと足を止めてふり返った。

 「上海の僕の家には沢山居候がいますよ」

 この男は、どうしてこうも次から次と私を驚かすのであろうか。進めば進む程、深まれば深まる程、新しい不安が芋づるのように出て来るのではたまったものではない。居候の話など今まで一度もきいたこともないのに……。

 しかし、ぎくりとした思いをかみころして、私は平然といったものだ。

 「居候がいたってかまいませんわ」

 「一人、二人と……(指を折って)我々を合わせると十人になるかな」

 一寸考えるようにして、

 「しかし、我々二人は別に宿舎をもらって住まおうと思っていますけどね」

 彼はにこにこと笑った。私も思わず笑った。ああよかったと思ったからである。

 私達は向き合って立っていた。周囲の緑の中に、彼の背広のグレーが一きわ明るく感ぜられた。その時彼の眼は柔和にかがやき、さっと大空に眼を走らせた時、非常にノーブルな印象をあたえた。

 「わたくしは何とかしてアジアを救わねばならないと思っているんですよ。日本と中国とをね。このまま戦争を続けたら、大変なことになる。アジアの問題が、わたくしの生涯の仕事となるでしょう」

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  1. 2013/11/01(金) 09:35:01|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 彼の眼は理想にかがやき、理解を求めるように私の眼にそそがれた。今まで私はこういう話はきいたことがない、こんな事を考えている人間に会ったこともなかった。私の周囲の大人達は、ただ社会の一環の中になって、自分の責任を忠実に果たしている人間ばかりであった。

 この逞しい信念と創造力は、選ばれた少数の人のものである。

 力強い彼の表現を見ていると、何時しか彼の理想が自分のものとなってゆくことを感じた。

 「すばらしい仕事です。それはいいことですわ。それには哲理をもっていなければなりませんね」

 「その通りです」

 それ以上彼は深く説明してはくれなかった。再び黙って互いの心にふれ合うように見合った。

 どちらからか手を出せば、しっかりと握りあうことも出来る程、信頼と慕情が湧き上りつつあったのだが、じっとそれをおさえて立ちすくんだ。

 「帰りましょう」

 ぽつりといって、彼は先に歩き出した。

 丁度坂の途中まで来た時、坂下の中学校の窓から腕白盛りの男生徒が多勢顔を出して、やんさやんさとはやし立てたのには閉口した。

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  1. 2013/11/03(日) 09:24:23|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 結婚式

 結婚式の前夜、肉親だけで内祝の宴をはってくれた。私は下座に下って、「いろいろお世話になりました」と挨拶した。

 田舎の小学校を出るや、兄の新家庭に割りこんできたこの妹を、兄は信頼して小言一ついった事がなかった。兄嫁は江戸っ子で、癇には強いが情に弱い人間であったから、私はこの夫婦をなめてしまって、彼等の精神をあまり尊重しなかった。今この家を去るにあたって、忽然として悔が泉のように湧き上ってきて、兄達が励ましてくれればくれる程、このまま居残りたい思いが起きてきた。

 「一寸むづかしそうな旦那さんだが、夫婦になって見ると又ちがうもんさ」

 経験者然と語る長兄。

 「字というものは性格を一番あらわすものだが、彼のあの手紙の字によると、真はとてもやさしい男だよ。あれは温和な性格でないと書けない字だ。俺はうけあうね」と三兄。

 見合以来の私の不安が、今では家族中にひろがって、彼等はいろいろの角度からそれを消すようにつとめていた。

 しかし私は自信ができつつあった。護国寺の墓地での彼の笑顔が、私の心を受けとめてくれるに違いないという確信をもたせたからである。

 「神様、すべてはあなたの御意のままに」

 親しんで行けるだろうか、うまく行くだろうか~そんなことはもう考えないことにした。

 結婚式は午後二時からであったが、その日私は朝から家を出た。

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  1. 2013/11/04(月) 07:14:14|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 一階の美容室で入浴から着付まで、専門家に一切まかせ、人形のように飾りたてられた。頭に合う髪が無いので少し小さめのをかぶせられた為、帽子をかぶったような按配であった。着物は三番目の兄嫁のもので、長い振袖の眼もさめるような華やかなものである。先生御夫妻が、あれ程「平服で」といわれたのに、母はがんとしてきかなかったのだ。

 式に先だって親族の紹介があった。

 婿側は先生御夫妻と本人だけ、私の方は母をはじめ兄達夫妻、弟と、ずらりと並んだ。

 「戸松君のお父さんは病身でわざわざ出てこられませんし、御承知のように旅館もなかなか都合つきませんので、こちらの御親族はおよび出来ませんでした。その代り、私ども夫婦が親代りとなりますから、よろしく」

 先生は親代りになって挨拶したり、仲人になって紹介したり、一人二役を演じた。

 食糧の配給はいよいよきびしくなり、旅館の経営も困難となって休業するものも多かったから、田舎から多数の客を迎えることは、実際やっかいな事であった。

 式は先生御夫妻と米倉夫妻、それに肉親だけで行われた。先生御夫妻が親代りを兼ねられるので、米倉夫妻は副仲人というかっこうである。式は勿論神式であった。

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  1. 2013/11/05(火) 07:02:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 玉串奉奠の時、付添の神主が「お二人揃ってあげて、揃ってさがって下さい」と注意したにもかかわらず、彼は実に元気よくさっさとさがってしまった。着なれない着物の裾さばきのむづかしさに、彼に合わせようとして私は懸命であった。あたかも、彼の後を追うのに真剣な結婚生活を暗示するかのように……。

 いよいよ三々九度の盃の時、彼は最初の一口を勢いよくぷっと吹きとばしてしまった。これにはみんなが驚いた。昔者の母などは、縁起をかついでひどく気にしてしまったらしい。上海を出る時から風邪をひいていた彼は、喉を痛めている上に、生来のアルコール嫌いであったから、緊張も手つだって急に喉に強い刺激をうけたという。

 披露宴になると、急に人数がふえて盛会となった。彼の知人や友人が加わったからである。音楽学校に行っている弟も、その頃やっとかけつけてきた。

 花婿、花嫁を中心にして、先生御夫妻、米倉夫妻という風に長いテーブルをはさんで席についた。その時、あけ放たれた廊下に面した窓の向うを、黒い人影が足早に通りかかった。

 「あっ、荒木閣下」

 花婿は突然立上って、数歩席をはなれてその客を迎えた。先生御夫妻も私も立上って迎えた。

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  1. 2013/11/06(水) 07:11:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 日頃軍服姿の写真を見馴れていた私には、モーニング姿の荒木大将は一寸奇異にさえ思えた。見事な鼻ひげはそのままであったが、顔色は軍人としては不似合に青白かった。万軍を動かしてきたその眼は、一見して人に尊敬の念を抱かさせずにはおかない威力がこもっていた。

 皆が驚いて見まもっている中で、軍人らしいきびきびした態度で、先生と挨拶を交して席についた。荒木大将が今日の席に見えるとは、私には全く思いがけない事であった。

 当時は東条大将が政権を握り、軍部にも絶対的権力をもっていた。彼の政治軍政に対し、荒木大将は批判的立場であった。その上、既に現役を退いていたから、往時のような権力者ではなかった。数年前まで(私のまだ学生の頃)、陸軍大臣として、世界の驚異であったがかりでなく、日本人の精神的指導者として、その名は津々浦々に響いていた。明治の乃木、昭和の荒木といわれる位、多くの期待と尊敬を集めていたものである。

 ややあって、安部先生が立ち上られる気配がした。ところが、先生は立ち上ったまま暫らく言葉がなかった。

……と……

 「わたしは嬉しい、こんな嬉しいことはない」と感極まったような声が、とつぜん私どもの胸をついた。先生は泣いているのである。胸にみちた感情がせきを切って流れ出したという感であった。一言々々で感情を沈めるかのように、とぎれとぎれに言葉がつづいていた。

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  1. 2013/11/07(木) 07:13:13|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「わたくしは長い間、早稲田大学で多くの学生を送り迎えしましたが、こんな青年は見たことがありません。新郎戸松君は、必ず大成する人であると思っています。一念を貫く鉄の意志、やさしい思いやり、向学心、高邁な識見、その手腕に対しては、ただ驚くばかりでありました。わたくしには二人の息子と、五人の娘がおりますが、その七人の子供と同じように、私は戸松君を愛し、ある意味ではそれ以上に期待をかけております。

 二人の息子は、わたくしの社会的、政治的立場を受継いではくれないでしょう。私の志を継ぐものは戸松君であると堅く信じております。戸松君は更にわたくしをこえ未知の世界をひらいて行く人であると思っております。わたくしは、これまで三十七組の媒酌をやってきましたが、自分から進んでやったのは三つで、後は人に頼まれたものでありました。自発的に媒酌を申出た三つ目の結婚式が、今日の式であります。わたくしはこれを最後として媒酌はやらぬことに決めました。わたくしの関係したもので、失敗したものは一つもありません。戸松君の場合も、必ず成功するものと確信し、期待しております」

 先生はなお、私をも近頃珍しい女性であるとほめて下さった。どういう風に珍しいか、それははっきりしない。先生と私の交わりは浅く、先生は自身のない、いいかげんな事は絶対いわない方である。人間を見ることにかけては、経験ある眼識をもっていた先生である。少しは人と変ったところがあると思われたのであろうか。

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  1. 2013/11/09(土) 15:50:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 モーゼの十戒が、神の言葉としてイスラエル民族の塊の中にきざみこまれた如く、この時の先生の言葉は、私ども夫婦の心の中にしっかりときざみこまれ、結婚生活を支え、支配する力となった。

 着席するや、先生は荒木大将に来賓としての祝辞をもとめた。大将の演説は既にラジオを通して何度かきいたことがあったが、肉声ははじめてである。思ったよりやわらかい音声であった。

 「戸松君には過ぎた点が三つあります。一つは理想が高過ぎる。その二は純情でありすぎる。その三は熱情が強過ぎる。こういう人物は順逆の両面があって順に立てば国家の大忠臣となるが、逆面に立てば大叛逆者となるおそれがある。現在までは先輩や私共が、ある時はブレーキになり、ある時は後推ししたりしてきましたが、これからは新婦がその役割を果さねばなりません。戸松君を大成せしめるか否かは、実に新婦の責任であります。よく自覚せられて、よき妻、よき母、よき友になっていただきたい」大将自身、名将としてまた政治家として、世界に広くその名を高めた蔭には、夫人の力のあった事を大いにみとめている人である。

 大将がまだ陸軍大学生の頃、昼間のきびしい訓練に疲れて、今日は勉強は止めようと思って家に帰り、机の上を見ると、はっとして勉強せずにはおられなかったという。ノートの上に鉛筆が数本きれいにけずっておかれ、冬ならば机のわきに火の入った火鉢がおいてあったからである。夫人は何もいわない。しかし大将はそれによって発憤せずにはおられなかったのである。

 一事が万事である。昔の教育を受けた婦人は、今の女性のように、口達者に相手をやっつける術は不得手であったが、彼女等は見事に躾られた態度によって、夫を動かしてゆく大きな力をもっていた。あたかも川の水が、自ら動き流れつつ、大きな石を動かしてゆくように……。日本の力の大半はここにあったのかも知れない。

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  1. 2013/11/10(日) 17:28:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 結婚の門出に、この偉大なる先輩二方の祝辞をいただいたという事は、実に素晴らしいことといわねばならない。

 宴が終ってから記念のため、荒木大将を交えてもう一度写真を撮った。

 出口の方に歩いている私の側に、将軍はつかつかと近よってきて、「奥さん」といきなりよびかけ、私をびっくりさせた。奥さんとよばれた最初の言葉である。将軍はにこにこして私の前に立止った。軍人としては小柄な人である。

 「戸松君をたのみます。結婚すると生活が変りますから、身体に注意して下さい」

 しみじみとした温かい言葉であった。

 戸松の先輩はどうして皆このように情ぶかく、豊かな心の持主なのであろうか。世にぬきん出ているこれらの人達には、共通の精神があるのであろうか。自分の信ずる後輩のためには、彼らは心をかたむけて期待し励ますのである。

 「安部さんと荒木さんとでは、おかしなとり合わせだねえ」

 兄達は首をかしげていた。当時の軍部は、社会主義者を眼の敵としてきらっていたからである。しかし、安部先生は、社会主義という衣をぬぎ取れば、日本人としての絶品であったし、荒木大将も、軍人という肩書をとっても、立派な人格者であった。社会的立場を超越して、互いに尊敬し信頼しあうものがあったのである。戸松を愛した先輩には、頭山翁の如き右翼の大御所あり、萱野長知先生の如き支那革命の指導者あり、緒方竹虎先生の如き政治家ありで、なかなか多彩である。よくもまあこんなにいろいろの種類の先輩を集めたものだと思う。

 その日、来ることになっていて、都合により出席出来なかった永井柳太郎氏からは、後日心をこめたお祝の手紙と金一封がとどいた。実に見事な筆跡と名文であった。安岡正篤先生もお祝のたんざくを下さった。

 大君の栄える御世に咲く花の
    匂うが如く幸きく生きませ

 これは夫婦として、匂うがごとく幸せに咲き、完成してくれという願いをこめたものである。

 結婚以来、十八年の来し方、今度こそ別れようと決心した程の喧嘩も何度かした。しかしその度に、この先輩の言葉が生き生きと胸によみがえってきた。殊に安部先生の言葉は、怒りと迷いの中にある私に、何時も深い反省と責任をあたえる力をもっていた。先生の信頼を裏切ってはならない、そして己の我のために戸松の素質を傷つけてはならないと思った。

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  1. 2013/11/13(水) 15:40:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 新婚旅行

 隔絶した心

 東北本線を北に進んで、陸奥湾ぞいに曲ったところに、浅虫という温泉町がある。結婚式を終えた二日後、わたくしたちはここではじめてほっと落着いた気分になった。

 一昨日、式を終えて九段の軍人会館を出た時は日はすっかり落ち果てて、夜の色につつまれていた。あれから、自動車と電車を乗りついで横浜のニューグランドホテルに行き、そこで新婚の一夜を明かした。ここは安部先生の御息女の中村夫人が、わたくし達の為に予約しておいて下さったところである。

 翌朝食事をすませると、すぐ東京に出て先生御夫妻に挨拶し、戸松は自分の用事のために出かけ、わたくしは実家、米倉家と、一応の報告にいそがしく走りまわった。

 夕方、江戸川アパートで落合って上野から汽車にのったのであるが、この間、しみじみ語り合う余裕は殆どなかった。行動を共にした僅かな時間に、わたくしは結婚というものが、男と女をおそろしく現実的で具体的な関係におくものだということを知っただけである。

 そうした具体性を帯びつつ、夫婦の世界が広がってゆくものであるということは考えられたが、なんとそれは、手さぐりで行くような見当のつかない未知の世界であることか。夫は父とも、兄とも同僚とも違った、不可解な存在であった。

 東北の四月はまだ寒い。まして浅虫は最北の町である。

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  1. 2013/11/15(金) 22:58:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 旅館の部屋々々には囲炉がしきってあって、体格のいい女中さんが炭火をついでくれた。彼女が何か話しかけるのだが、わたくしには朝鮮語のようにひびいてさっぱり通じない。

 「あれが津軽弁というんですよ。」

 女中が去ってから、戸松は笑いながらそれを標準語になおしてきかせた。

 珍しい山菜料理の多い夕食の膳も下って、お茶をすすりながら、囲炉をはさんでくつろいだ。彼は火箸を器用に動かして、炭火を立てたりつんだりしている。煙草をのまないから、手持ぶさたなのかもしれない。

 白い灰をうっすらとかぶって勢いが失せかけていた火が、再びカッカッと火力をもちかえしてきた。彼はそれを見極めるようにしてから、火箸をいろりの片隅にざつぐと立てて顔を上げた。

 「ぼくの手紙で、あなたはずい分ショックを受けたそうですね。」

 「ええ」

 「先生からききましたよ。あなたのお母さんが猛烈に反対したこともきいた。そんなに反対があったんなら、ぼくも考えるんだったと先生にいったんですよ。」

 安部先生一人を信じ先生の言葉に運命を托してきたわたくし達は、お互いの事情に通じないばかりか、心も通じあっていなかった。

 「お母さんのことはともかくとして、あなたがこの結婚に情熱をかけてくれたということをきいてうれしく思いましたよ。安部先生を通してでなく、本物のぼくに対しても、同じような気持をもってくれますか。」

 「ええ」

 わたくしは素直に答えた。

 彼は情味あふれるような言葉をかけたり、わざとらしい労り方などはしない。無造作なくらい淡々としているが、わたくしの存在を大切にしている様子が、なんとなく感ぜられたからである。

 たのもしい人だ~という信頼感が、わたくしを支えていた。

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  1. 2013/11/17(日) 17:54:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「あなたは恋愛したことありますか。」

 突然彼は話題を転じた。

 わたくしは虚をつかれたように、どきりとした。

 「いいえ」

 とっさにそう答えながら、内心うしろめたいものがあった。

 「若い時に初恋も出来ないような人間では駄目だと思いますね、ぼくは。」

 彼の質問の意図をつかめなかった自分に、多少のくやしさを感じながら、わたくしは三年前に秘かに好感をもったことのある一人の青年を思出していた。

 その青年Cとは、ろくに話したこともない。自分の心に特別な感情がおきてきたことを知った時、わたくしは極力Cを避けて遠のいた。わたくしの母は子供の人生に対して、理想というより虚栄とも云うべき目標をもっていた。息子達は東大を出て旧家の躾ある娘を嫁に迎えねばならなかったし、娘もナンバースクールをとんとんと進んで官立大学を出た人にかたづけたかったのだ。そのため、長兄が恋愛結婚した時には、一大メロドラマにもなるような、親類をあげてのトラブルがおきたものである。

 そのためであろうか。わたくしは異性に対しては臆病であった。母に反対されそうな恋愛はしたくなかったのだ。わたくしは自分の気持を日記に書くことによって、その辛さから逃れようとした。そして、人間の感情が時間と反比例して冷却してゆくものであることを体験した。

 わたくしは結婚に対して、母とは違った意味の理想主義者であった。その条件は、肉体的にも清浄であるばかりでなく、精神も又、純潔でなければならなかった。自分の妻と定める女性があらわれるまで、煩悩や誘惑にたえていくような高潔な青年はいないものだろうか?……と。それを期待し、待ちつづけていた。

 しかし、この理想は、今度の結婚問題の経緯の中で、すっかりくつがえされてしまった。

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  1. 2013/11/19(火) 17:44:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 安部先生の人格的魅力は、あらゆるこだわりや信条を乗りこえて、先生に信従させてゆく力をもっていた。そしてわたくしは、男性の真の価値が何であるかということを、おぼろげながら知ることが出来たのである。

 それ以来、男性に対する考え方が変ったつもりであった。が、……それは頭の上をからまわりしているだけで、腹の底まで徹していたわけではなかった。

 「上海を出る時、友人とも話したことなんですが、ぼくは前に別れた女に、いくらか責任を感じなければならないと思っているんですよ。その女は今は結婚しているそうですけどね、あのままでは幸福になれるかどうかわかりません。将来困って、もし頼ってきた時には助けてやらねばならないし、落ちぶれて生活に窮するようなことがあったら、多少の面倒は見てやらねばならないと思っています。仕合せにするつもりで夫婦になったものが、不縁で別れる、それが何十年後に不幸になっていることがわかったら、そうせねばならないでしょう。人間同士ですものね。あなたも一緒にやってくれますね、やってくれるでしょう?」

 わたくしは、はっと呼吸の止まる思いである。これは思いがけない難題、ほんとに難題にちがいなかった。胸の中に荒々しく渦が巻きおこり、それが乱れてぶつかり合うのを感じた。

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  1. 2013/11/20(水) 21:05:41|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 六年前に去って、他に嫁いでしまった女に対する責任感など、わたくしには理解出来ない~。

 なぜ、わたくしまでが、その責任を負わねばならないのであろうか~。

 責任ともっともらしく表現されてはいるけれども、わたくしに失望して、その女性への恋情が再熱したのではあるまいか~。

 今や、彼とわたくしとの間には、見たことのない一人の婦人が、でんと座をしめてしまった。そしてわたくしは、自分が精神的にみじめな立場にいることを知った。

 男性観が変ったとは云え、多様性をもった男の心理は殆どわかってはいない。ましてやその根源的なものをつかむことなど、出来る筈はなかった。

 自分とわたくしを一つにとらえて、夫婦として人間として、ゆたかに伸びてゆこうとする彼の精神などかたくなな程潔癖な心には、到底理解出来なかった。

 わたくしは固く黙っていた。今にも泣き出したい思いである。

 過去はともかくとして、彼とわたくしの未来には、どんな邪魔が入ってもならないのだ。純粋な結合こそ、わたくしのもとめている最大のものであった。

 彼と六ヵ月も暮したことのある女性が、将来われわれの身辺をチラチラすることを承知することなど出来るであろうか。

 わたくしの心の動きが、わかってか、わからずしてか……

 「友達はそんなことをいうのは、花嫁にたいしてかわいそうじゃないかと云っていましたけどね、ぼくは、あなただったらわかってくれると思う。それがわからなかったら、ぼくの妻にはなれないな。」

 ぐんぐんおされて、わたくしの心は抵抗する気力もなく、おしつぶされそうになった。

 こんな筈ではなかった。こんな筈ではなかったのに~。

 おし黙った胸の中で、もう一人のわたくしが悲痛に叫びつづけていた。

 しかし、わたくしは尚も冷静な沈黙をまもった。当惑と混乱の中にあえいでいる自分の心を、彼に知られたくない~。それは、わたくしの誇りが許さないことだ。

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  1. 2013/11/23(土) 10:10:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 理想~信従

 彼は再び火箸をとりあげ、灰をかきよせながら、

 「この間からずうっと見ているけど、あなたはなかなか立派だ、ぼくは安部先生に感謝している。前の人は、大人しい人ではあったけれど、いつ間違いをおこすかわからない可能性があった。六ヵ月の間、いろいろの面で手こずりました。

 最初はなんとかなるだろう。自分の手で立派に教育してみせようと考えていたが、だめだった。疲れるばかりだ。

 妻を教育するということは、非常にむづかしいものだと知りましたね。こんな生活をしていたら、今にぼく自身が駄目になるんじゃないかと思った。

 しかし、男として妻を離別することは出来ませんしね。いったん妻としたら、最後まで責任をもってやらねばならないですからね。

 向こうから別れたいといった時は、最初はぼくもまだ未練があった。ぼくの努力がまだ足りないのではないかと思いましたからね。

 手紙にも書いたように、先輩(今井土建会社々長)の家庭にあづかってもらって、主婦としての修養をさせたこともありました。しかしだめだった。相手は全然こちらの誠意を受けとってくれないのだ。しまいには、ぼくを恐れてしまってねえ、しつこく別れたいというものだから、ぼくも到々決心したんですよ。もう女にはこりごりだと思ったな。」

 といって、彼はなんのこだわりもない表情で笑った。それは過ぎ去った思い出に、少しもとらわれていない、さらりとした態度であった。

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  1. 2013/11/24(日) 15:35:41|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 自分の思うようにならない妻をたずさえて、途方に暮れている若い彼の姿をわたくしは想像して見た。責任と誠意が強いだけに、その苦悩は大きかったであろう。少しでも妻を高めようと努力する彼の真剣さも、自分について来られなかった女への憐憫と責任感も、それはもう男女の関係を超越した人間愛に立っていると考えるべきであるかも知れない。

 彼が不実な人間でないことはたしかだ。それは裏を返せば、わたくしに対する誠実を意味するものである。

 わたくしが彼を信じてゆく限り、わたくしを無視したり、裏切るようなことは絶対出来ない男にちがいない~人間に対する彼の真実が、新風のようにさわやかに、わたくしの心にしみてきた。

 「妻が間違いをおこす可能性があるということは、男にとってやりきれないことですよ。反対に妻が貞淑であるということぐらい、大きな支えと安定はない。
  その点、男はいくじのない者でねえ。妻に対する信頼がなかったら、大きな仕事は出来ませんよ。」

 常に心を悩まされた自分の体験と共に、彼はナポレオンの話をしてくれた。

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  1. 2013/11/28(木) 17:44:28|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 ナポレオンの皇后ジョセフィンは大変不貞な女で、遠征に多忙の日を送っている夫の留守中、慎ましく待っているような妻ではなかった。当時のフランス社交界における彼女の艷聞は、陣地にまで伝わって、ナポレオンをいらいらさせた。彼の神経は針のように鋭くなり、鏡が落ちてくだけてさえも、ジョセフィンの上に大きな間違いがおこったのではないかと案じた。

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  1. 2013/11/29(金) 21:00:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「人生に不可能はない」と、豪語したこの英雄も、自己の力には絶対の自信があったが、一人の妻の心を完全に握ることは出来なかった。彼は常に怒り、食事の時もろくろくかまなかったから、だんだんと胃を害し、遂にはそれが持病になってしまった。

 彼の運命を決したウォータローの戦いの時、不運にも胃痙攣の苦痛が彼をおそってきた。砲撃の機が熟したことを知った彼は、左手で腹部をおさえながら右手を上げて「発砲」の号令をかけた。が……それは声にならなかった。彼は烈しい苦痛にたえながら、更に度重ねて号令をかけたが、その一つさえも通っていかなかったのである。発砲の命令が砲手にわかった時は、すでにネルソン軍の砲弾の猛攻撃を受け、陣地は壊滅の際にあった。

 機を失したナポレオン軍は、ついに敗戦の悲運に陥ってしまったのである。

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  1. 2013/11/30(土) 12:41:30|
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