いしずえ

第一巻春雪の巻

 先生の後悔

 夕食の支度の時、夫人は又わたくしを台所によんだ。細長いせまい台所であったが、白いタイルがしきつめてあって清潔な感じであった。

 夫人は今まな板の上に、一尺以上もある魚をのせて、それに包丁を入れようとしているところである。今思えば、わらさと云う魚だったのではないかと思う。その頃、こんな大きな魚をまるごと手にいれることは出来なかったから、多分どこかからの送りものであろう。

 「この魚、どうして食べたらおいしいかしら」

 自分はなにもかも知っているくせに、わたくしに相談した。

 「さあ」

 「こういう青い皮のお魚は、照焼か、こいめの味に煮つけた方が一番おいしいようね。あなた、おきらい?」

 「いいえ、大好物です」

 「じゃあ、そうしましょうか」

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  1. 2014/02/01(土) 20:43:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 よたよたした身体のどこから力が出るかと思う程、手先に力を入れて見事に四五片きりとった。

 「鯛のような白味の魚は、塩焼にした方が一番おいしいようね」

 夫人は切身を醤油と砂糖と味の素を合わせたつけ汁の中に入れながら、魚談義をはじめた。

 夕食がととのうまで、二人で色々話しあったり、まだ二三品料理したように思うのだが、後のことは皆目記憶に残っていないから不思議である。

 その夕、戸松は六時になっても帰らなかった。親類の老人も、わたくしどもが来たので何処かへ行ってしまったのか、全然姿が見えない。先生御夫妻とわたくし三人は、しんみりした雰囲気の中で食事をはじめた。

 この時先生は、客間の壁にかけられた写真の少女の話をして下さった。その少女の面影ははっきり思い出せないが、七五三の盛装をした上品な子供であった。

 「あの子はわたくしどもの長女でしてね。八つの時になくなりました。今思い出しても、胸をしめつけられるようなかわいそうな死に方でした」

 先生は箸をかかえ、口を軽くあけたまま、はるかな思い出に送るような眼差をわたくしにそそいでいた。

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  1. 2014/02/02(日) 19:35:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 どんな風にしてなくなられたのですか……などと、とても口に出すことが出来ないほど、わたくしの心はその表情にうたれていた。

 ややあって、

 「最初の子供でしたのでね、わたしも家内も非常に期待をかけました。なんでもよく覚える子で、張合いがありましたしねえ、殊に日本舞踊の素質がありましたしね。わたし共二人もずい分力を入れました。ずんずん上達するし、とても楽しみでした。しかし、とうとう脳膜炎にかかってひどい熱で苦しみはじめた時、それらが総て原因のような気がして、ずい分後悔しました。勿論そういう宿命だったのでしょうけれどね。親というものはどうも、子供に多くの期待をかけすぎるものですが、これは余程考えなければならないことですね。頭のよい子はやらせればいくらでもやりますけど、無理をさせると失敗しますね」

 夫人も、

 「わたしどもは、最初に苦い経験をなめましたからね、後の子供は子供本位に自然にのびるものを育ててやるようにしたつもりです」

 といわれた。この夫人のくぼんだ大きな眼や口のまわりにきざみこまえた皺の中には、そうした悲しみや苦しみの体験が、ひっそりとしずんでいるかのようであった。

 戸松は八時近くになって帰り、今日会ってきた鎌倉の先輩について、先生に色々報告していた。その人は萱野長知といって、日本人では只一人の中国政府の顧問であった。先生は非常に興味深くきいておられたが、その頃の私にはそれ程の関心事ではなかった。

 萱野先生が珍しくすぐれた人である事は、ずっと後になってわかったが、今にして思えば、只一度でもよいから、その風貌に接しておきたかったものである。

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  1. 2014/02/04(火) 04:14:56|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 夫唱婦随

 翌日も戸松は餅をもって、先輩のところへ出かけた。それらの先輩からは、それぞれ結婚祝をもらっていたので、謝礼しなければならなかったのである。しかしそれよりも大切なことは、東京にいる間に見識高い先輩と談合しておく必要があったのかもしれない。その為か、或いは夫人の生活態度を学ばせる為だったのか、彼は江戸川アパートにわたくしを残したまま出かけて行った。

 午後になると米倉夫人が、にぎやかな声をまきちらしながらやって来た。その時、先生は散歩に行かれたのか不在であった。

 米倉夫人は開口一番、

 「登志子さん、どうです?仲よくいっていますか?」

と、眼鏡ごしに笑いながらきいた。

 「あなた、それはまだ無理よ。だんだんにね、それはだんだんにですよ」

 こまを夫人はわたくし達の間のぎこちないことを、すっかり見ぬいていた。表面はなごやかそうにしているが、お互いに馴々しく話しあうと云うこともなく、いつも先生御夫妻を間にはさんで対していた。

 「それは登志子さん、あなたがいけないわ。もっと、あなたあなたといって甘えていかなくちゃあ」

 わたくしはぷっとふき出してしまった。米倉夫人が、「あなたあなた」という時、身体を左右にふって甘えるしぐさを見せたからである。こまを夫人も口に手をあてて、身体を二つに折ったまま笑った。

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  1. 2014/02/04(火) 15:54:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 一しきり笑いこけた後、今度は真顔になって、

 「ほんとにわたしも思い出すわ、うちの米倉も若い頃は真面目一方の人で、さっぱりしみじみしない人でねえ。わたしもずい分ひとりで気をもんでいらいらしたものよ。一年たってもしみじみしない、二年たってもしみじみしない、三年たってもしみじみしない、しみじみしない中にとうとう年をとっちゃった。でも不思議なものでねえ、親よりも兄弟よりもよくなるものですよねえ」

と、その体験談を語った。それにさそわれるようにこまを夫人も、

 「うちのおじいちゃまも、若い頃はわたしの気持がとんとわかっていなかったのじゃあないかしら。こんなことがありましたわ。秋のころかしらね、その月の月給の中から主人の着物を買うように予算がとってあったのよ。ところがねえ、夕方お散歩からとても御機嫌よくお帰りになって『気に入った机と椅子があったから注文してきたよ。とどいたらあれで払っておいてくれ』とおっしゃるのよ。わたしももうあきれてしまってね、『あなた、今年の冬はその机と椅子を着ていらっしゃって下さい』といったんですよ。男の人ってそういうものですよ」

といって、その時のあきれた思いを、今なつかしんでいるといった風であった。

 全然異質の男と女が、完全な夫婦として完成してゆくまでには、さまざまの心のすれ違いや苦闘があることはわかっていたが、こまを夫人の口から語られると不思議なことのようにきこえた。

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  1. 2014/02/05(水) 09:06:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 更に夫人は、高田本町にいた頃のことを話して下さった。その頃は両親(夫婦の両方の親だったか)や子供や書生をあわせて、十五人もの家族であったから、早稲田大学教授としての給料ではとても容易ではなかった。夫人は一日中ぐるぐるとこまねずみのように立働いた。それは冬でも汗ばむ程であったから、働く時は単衣物を着ることにした。その方が動きよいからである。

 親達や子供の身なりは、いつもきちんとするように心を配っていたが、自分の服装は極度にきりつめ、羽織のひもはこよりや毛糸をあんだので間にあわせた。

 ずっと後に戸松からきいた話であるが、先生は、御自分は質素な生活に甘んじながら、有能な青年を育てるためには金銭を惜しまない人だったという。青年ばかりでなく、先生を頼って来る者には及ぶ限りの力をあたえた。しかし自分の生活を破壊するような、無理な援助はしなかったらしい。それは、先生の基本的思想によるものであった。

 先生は青年の頃、アメリカの大学で神学を学んでいた。熱情あふれるこの青年は、人間を救うには神の力だけでは駄目だと思った。具体的に肉体をもった人間は、経済的にも救われねばならないと考えたのである。しかし人間の目的はあくまでも精神生活にあるのであるから、経済的生活はその手段であるというのが、先生の根元的な考えであった。こうした人類愛の立場から、社会主義も大いに研究した。

 米国の様子を一通り知った先生は、更にドイツに留学して(その頃経済学はドイツが最も進んでいた)経済学を学んでみたいと思った。しかし資金のあてが全然ない。ところが、神学校の校長のあっせんで、学資を出してくれる篤志家があり、多額の旅費と学資が渡された。先生はその奇特な恩人の名前をきいたが、校長はその人が、金持の老未亡人である事以外はあかしてくれなかった。その未亡人は「その金は神に捧げたものであって、神はそれを世のために尽しうる人にさずけたのである。感謝するならば、神にしてほしい」

といって、名前を語ることを許さなかったというのである。

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  1. 2014/02/06(木) 13:13:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 その後、先生はイギリス、ドイツに学んだが、その間この未亡人からの援助は続いた。それのみでなく、この夫人が死んだ時、遺産の幾分かが送られてきた。それは当時の金でも相当のものであったらしい。この時先生は、初めてこの老婦人の名前を知ったのであるが、もはやお礼をいうことも出来ない天上の人であった。遺産は勿論社会事業団に寄付された。

 「われに感謝せずして神に感謝せよ」

といったというこの未亡人の精神にこたえるならば、先生の報恩は神に対して行われなばならなかった。神は愛にして、しかもその愛は総ての者に公平にそそがれるものであるならば、神への報恩は総ての人々を愛することにあった。先生は神のように人を愛し、その未亡人のように志あるものを援けた。

 「敬天愛人」これは西郷南洲の言葉であるが、先生はこの言葉を大変このんでおられたようである。

 六十歳を過ぎて早稲田大学を自発的に止めた先生は、ふはいした当時の政界に入り、そびえるような高潔な人格をもって、一すじの光のように周囲を照らした。先生は現実社会の欠陥につねに眼をそそぎ、政治によってこれを正さねばならないと考えていたのである。

 先生のこの高遠な理想と質素な生活にたいする第一の共鳴者はこまを夫人であった。夫唱婦随という言葉は、この夫妻のために用意されたのではないかと思われるほどである。

 心が貧しければ、質素な生活はいかにもみじめに苦しそうに見えるものであるが、心が豊かであれば、それは芸術的にも感ぜられるものである。先生御夫妻はその高く清き心ゆえに、簡素な暮しの中にいながら、王者のような気品とゆとりをもっていた。わたしは後年、茶道を学んでみて、安部先生御夫妻こそ茶道の極致にいる人であることを知った。先生御夫妻が茶の湯を嗜んでおられたということは、一度もきいたことがないから、結局すべての道のきわまりは一つであると思われる。

 五十年も人生を共にしてきて、お互いに若い人の支えなくては心細いような老齢にありながら、夫人はいつも若妻のようにまめまめしく先生の世話をやいていた。時たま、先生から軽くたしなめられるようなことがあると、丁度処女のような羞らいをみせて眼を伏せたそのさまは、老婆とは思われないようなしおらしさであった。

 「わたしより、家内の方がずっとすぐれています」

 或時先生は、なに気ない調子で夫人をほめておられたことがあるが、思想的に共通な基盤にあって、お互いに尊敬しつつ夫婦としての道を高めてきたものと思われる。

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  1. 2014/02/07(金) 10:25:22|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 その日は夏子夫人のお宅で、晩さん会が開かれることになっていた。それはわたくし達夫婦の結婚を祝って催されるもので、こまを夫人が老齢なため夏子夫人が一切引受けたのである。

 外から帰られた先生を迎えて、お茶をのみながら暫らく話していると、夫人が先生の顔をのぞき込むようにして云った。

 「おじいちゃま、わたくし米倉さんと一寸用事がございますから、登志子さんを夏子のところへ先に御案内して下さいませんか。夏子が待っているでしょうから」

 「ああそうしましょう」

 先生も母親に命令された子供のように、早速立上って、

 「登志子さん、ゆきましょうか」

と、わたくしをうながした。

 先生の長男、民雄氏も、三女の松原夫人も、五女の丸山夫人も、このアパートに住んでいた。丸山夫人が夏子さんで、部屋は三階にあった。先生の部屋は四階であるから、下におりるのかと思っていたら、先生はどんどん上にのぼってゆかれる。だまってついていくと、屋上に出た。

 「夏子のところへゆくのには、屋上へ出た方が早いのですよ。下へおりますと一番下まで行って、別の入口から上らなければなりませんのでね」

 ここまできて、はじめて先生はそのわけを説明して下さった。

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  1. 2014/02/08(土) 12:53:03|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 そこは洗濯場があるだけで、何の趣向もなく広々としていたが、白い雲をうかべた青空と、頬をなでてゆくさわやかな風を存分に味わうことが出来た。

 周囲は胸の高さまでコンクリートの壁で固めてある。先生は黙ってその壁の方に歩いてゆかれた。わたくしも先生と並んで、その上に手をのせてよりかかった。

 見渡すかぎりの家、家、家、そしてその間に点々と樹木が固まって見える。

 「あれが靖国神社ですよ」

 先生の指さす方を見れば、黒い大きなかたまりのように樹木が茂っている。

 「こちらが早稲田大学」

 なるほど、早稲田の森だ。ここも樹木が多い。デパートの屋上にあがったことのないわたくしには、これははじめて見下す東京の風景であった。

 日は西の空にかたむき、そのあたりをゆっくり流れてゆく雲が、ばら色に輝いて見える。

 「夕方の雲はきれいですね」

 先生は静かにふり向きつつ、同感を求めるように云われた。

 「先生もずい分空や雲がおすきのようですね」

 「そう、こんな年になると、美しい景色を見たくても、簡単に旅行が出来ませんからね。ここから見ると、東京の空もなかなかきれいですよ」

 亡き彫刻家、高村光太郎夫人の千恵子は、「東京には空がない」と嘆いた。「千恵子の空はあたたら山の上に出ている青い空なの」といって高村を困らせたものらしい。千恵子のように、純粋すぎるもろい神経には、東京の空は空虚でにごって見えたかもしれない。

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  1. 2014/02/09(日) 09:16:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 しかし先生は比較対象をぬきにして、作意のない自然を一切肯定した立場に立って眺めていた。人間に対してばかりでなく、自然に対しても、雅量があったのである。

 ヘルマンヘッセも、

 「雲より美しいものが世界にあったら見せてもらいたい。私より雲をよく知り、私以上に雲を愛する人がいるだろうか」

と云い、彼も先生と同じように、どんな空にかかった雲であろうと、どんな形の雲であろうと、すべて目の慰めであり、祝福であり、神の賜物であり、死の力であるとして愛している。太いきたえ上られた精神には、湖のように静かな空も、あれ狂った凶暴な空も、すべて自然の美であり、神のめぐみであるのかも知れない。それは人間の貪慾が、いまだおかしていない、残された只一つの場所だからかも知れない。

 ふと、先生は振返って、ちらっとわたくしを見てから、その眼を真っ直に前に向けて云われた。

 「登志子さん、戸松君は社会のために一生をかけていく人です。そういう人の人生は経済的に豊かにはなれないものです。貧しさと共に歩む覚悟がないと続けていかれないものなんです」

 先生の言葉は、美しい雲のように低俗からはるかにはなれたものであった。

 「はい、わかっているつもりです」

 自分の生涯をアジアの平和にかかげたいと云っている戸松の人生が、平々たんたんたるものであるとは、わたくしも思ってはいなかった。理想のためには、地位も富もふみこえてゆかなければならない。

 わたくし達も、先生御夫妻のように、理想に生きぬいてゆこう……わたくしは言葉には出さなかったが、おだやかな先生の横顔にちかった。

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  1. 2014/02/10(月) 13:01:26|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 夏子夫人の家庭

 三十分以上もそこで時間を費やしてから、階段を下り、丸山家を訪れた。夫人は待ちかねていたように、はずんだ声で迎えて下さった。

 しげちゃんは丁度食事をしているところで、お膳代りになる台がついた小さな椅子に腰をかけてスプーンをしきりに口にはこんでいる。大人の食事がはじまる前に、ちゃんと食べさせておく習慣なのかもしれない。

 間もなくこまを夫人、米倉夫人、戸松と、ぞくぞくと集まってきた。夏子夫人は敏捷に立働いてまたたく間にテーブルを飾り上げ、若夫婦の家庭らしいモダンな明るい食卓がととのえられた。しかし料理は純日本風のものばかりで、中でも主な献立となっているらしい関西ずしは、いかにもこまを夫人の好みのようであった。

 戸松とわたくしは上座にすらわされ、向かいあって米倉夫人とこまを夫人、横には先生と夏子夫人、それにこの家の長女のかわいいお嬢さんが席をとった。

 食事をする間、もっぱら子供の話が出、米倉夫人は夏子夫人の育児法がいかに立派であるかをほめたたえた。こまを夫人もそれを高く評価しているらしく、

 「今日は、実をいうと、お昼頃から登志子さんを御案内したかったんですよ。しげちゃんがお昼寝する頃から見ていただきたくてね」

といって、しげちゃんはお昼寝の時間にはちゃんと独りで寝台に入ってねること、眼がさめると泣かないで黙って起きること、食事も全然夫人が手をかさないこと等を話して下さった。完全なる個人主義のすじ金は神とともに独立独歩する精神である。この家ではこの精神を、赤ん坊の頃から徹底的に習慣づけているのである。これは老いても尚、子供達とは別に独立して生活している先生御夫妻の人格に通ずるものであった。

 その中にしげちゃんの食事はすっかり終ったらしく、夏子夫人は近よってこぼれ落ちた食べ物を割り箸で一つ一つていねいに皿にひろいとった。しげちゃんは早くおろしてくれと泣きわめくわけでもなく、だまって母親のすることを見ている。それは実によく訓練されていて、この子供の生活をわたくしに見せる為に、この家に席を設けたのではないかと思われた。

 食事が終って、小学一年生のお嬢さんがピアノをひいた。このお嬢さんは三四年前の婦人雑誌におじいさまと一緒の写真がのっていたような気がする。良家の子供らしい、素直な感じの子供であった。

 こまを夫人はこの二人の孫が自慢でならないらしい。身内の事になるといつも控え目な人なのにこの孫の話にかぎって、がぜん自信をもってほめだすのである。実際こういうのびのびした明るさと、きちっと訓練づけられた態度をもっている子供は、そうざらにいるものではない。

 先生御夫妻のわたくしに対する教導は、実に自然で、実に巧みで、実に誠意にあふれていて、わずか二日の間に、わたくしは結婚生活の基本を学びとったような気がした。

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  1. 2014/02/11(火) 12:49:56|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 兄の招待

 池袋から西に走る池袋線の沿線に大泉学園という駅がある。駅前に桜並木のつづく道路が東に市民農園の方にのびていて、それをはさむ一帯の地域が東大泉町である。昭和十六年に、この一角に陸軍士官学校の官舎が小部落をなす程に建てられた。佐官級、尉官級、下士官級と、道路で劃して等級別になっていた。

 兄の住いは佐官級の列の丁度中程で、両隣は文官で、庭の垣根の向う側には、武官のお歴々がずらりと並んで住んでいた。両隣の文官同氏はいたってくだけた連中で、くわえ煙草に褞袍姿で、垣根ごしに「やあ」「やあ」と気軽く声をかけ合い、夫人同志も長屋のおかみさんとかわることなく、井戸端会議のようにお互いの庭に入りこんで、おしゃべりを楽しんでいる風であった。

 別に武官と文官が張り合っていたわけでもないと思うが、どういうわけか、庭向うの人々とは配給物に関する以外の深い交わりはなかったようである。武官の家庭生活は傍目にも謹厳に見えた。兄の家庭をふくめた隣あった三軒の文官は、申しあわせたように子供の数も多く、それぞれ郷里に父祖伝来の家を持っていたから、国元にも何かとかかりが多く、その上専門の書物は高価であったから、生活は決して楽ではなかった。

 夏子夫人の晩餐会の翌日、わたくし達夫婦はこの兄の家に招かれた。その日は丁度戸松が、新国劇の夜の部の切符を買っていたので、夕食の招待であったが大分早めに出かけた。夫婦そろっての初の里帰りである。兄夫婦は気どりがみじんも無く、気が向けば他人の為にぎせいを払っても苦にならない人達であったから、妹夫婦の来訪を心からよろこんでいる風であった。

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  1. 2014/02/12(水) 15:52:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 しかし、母は違っていた。大切な娘をさずけてやった婿が、自分に対して平身低頭、信服の意を表さないのが不服で仕方がなかったのだ、それにまだ食事の用意が十分に整わない中に、のりこんで来られたことも疳にさわった。彼女は冷たい挨拶を交わしたのみで、母親らしいやさしい言葉一つかけるでもなく、台所にひっこんでしまった。

 戸松も母がわたくしどもの結婚に対して、猛烈な反対をしたことを知っているから、敬遠して常に視線を外し、母を意識しないようにつとめていた。それが又一層母の心を傷つけた。彼女は自分こそ戸松から最も尊敬され、御機嫌をとってもらうべき立場にあると思っていた。誇り高き老女と誇り高き青年は、自らの誇りを固持して暗黙の対立をしていたのである。

 つまみ物が出て酒が運ばれたが、生憎戸松は下戸である。酒にかけては兵である兄は、三、四本も入ると漫談家のように面白くなるのだが、アルコールぎらいの義弟を相手にしては、自分も酒が一向にすすまず、憮然とした顔で、あたりさわりのない会話を交していた。

 政治、経済、外交にかけては豊かな話題をもって、常に安部先生をよろこばせている戸松であったが、兄はこの方面には明るくなかった。数学や物理にかけては常に学生の人気をかちとっていた兄は、スポーツ、歌舞伎、義太夫などにも玄人はだしの知識をもっていた、しかし、戸松はそのどれにもあまり興味がなかった。彼等はお互いの善意をみとめ合いながらも心を裸にして話しあうことは出来なかった。

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  1. 2014/02/13(木) 10:38:04|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「登志子、ちょっと」

 襖ごしに母によばれて、わたくしは茶の間に入っていった。母は今、箱ずしの枠をぬいているところであった。

 「夕飯に来る様にといっといたのに、こんなに早く来て五時に帰るなんていわれたら困るじゃないの」

 「だってお母さん、戸松がこの間から明治座の切符を買っていたのよ。義理をたててこちらへ来たんだけど、半分しか見られないかも知れないのよ。」

 「お前も気がきかないわねえ。そんな時には米倉の小母さんでも御一緒に御案内するものよ。仲人さんもなにもみんなおいといて、二人ぎりで芝居を見にゆくなんて……」

 は、はあ~とわたくしは思った。米倉の小母さんではない、自分を案内してもらいたかったのだ。

 考えて見れば、今までは夏冬郷里に帰る時も、上段に分暮の挨拶をする時も、温泉に行く時も、いつも母と一緒であった。彼女はわたくしの勤め先までのこのこと出かけて行って、わたくしの評判をきいてきたりした。娘の一切を掌握しているということで、母親としての満足感をおぼえていたものであろう。

 掌中の珠のように大切にしていた自慢の娘が(少くとも母にとっては自慢であったらしい)今まで見たこともない青年に思いのままにあやつられ、自分を置きざりにするようになったことは、淋しさを通りこして不服でさえあったのだ。

 「お母さん、わたしね、自分の意見を伝うほどまだ戸松とは親しくないのよ。なんだかさっぱりわからないけど、明治座に行くっていうから只ついて行くだけなのよ。」

 母はびっくりしたような顔をしてわたくしを見た。木枠をはずされたおしずしは、断層のような断面を見せている。その一番上段に包丁をいれていた母の手は、そのまま暫らく動かなくなった。

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  1. 2014/02/14(金) 11:15:23|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「早く仲よくならなきゃいけないね、昨日今日一緒になったのではあるまいし、あれからいく日たつと思うの。」

 今までの不満そうな色はかき消えて、老いた顔に心配そうな影がさした。

 嫁入りと同時にすっかり婿の世界にとけこんでしまったと思っていた娘の心は、まだ母親の身辺をうろついていたのである。母親は内心狼狽した。

 母の矛盾したこのような複雑な心の動きは、彼女自身が娘の結婚という人生の大きな衝撃から、平静をとりもどしていない証拠である。

 「別に仲が悪いというわけではないのよ。ただね、お兄さん達と話をするようなわけにはいかないわ。」

 「上海に発つまでには、仲よくなってもらわないと後のものが心配だからね。」

 母はほっと大きく息を吐くと、再び包丁をもった手を器用に動かしてすしを切りはじめた。威厳を示すような大きな鼻は、老いて尚衰えない精神力を物語っていたが、手を動かす度に頬にたれ下ったほつれ毛がかすかにゆれて、気丈に生きぬいてきたがんこな顔に一抹の佗さを添えていた。

 皿にとり出して、その上に格好よくすしを盛りつけると、茶ぶだいの上に吸物と一緒に並べて、

 「お前はここでお上り、お前が大好きなおすしを食べている様子を、ようく見ておきたいからね」

 外の二皿は姉に客間の方に運ばせた。

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  1. 2014/02/15(土) 20:28:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 わたくしの実家の家族は、どういうものか皆おすし党であった。めでたいと云ってはすし、お客が来たといってはすしをつくった。島根県風の箱ずしは、東京では特に珍しがられ、この家を訪れる客は皆いっせいにこれをほめた。三人の兄嫁は皆東京の人であるから、都会的敏感さでこの老女の誇りを満足させる方法を心得ていた。彼らは母の料理の腕に最大級の賞賛を与えるばかりでなくおしずしだけは本当においしそうに全部平らげた。

 そして彼女らはお母さんに負けるもんかというので、すしの好きな夫のために苦心惨憺してつくって供したが、夫達はいつも不平をならした。

 「どうも、女房のつくったすしはくえないよ。二つ三つ味が足りんようだなあ、すしはやっぱりお母さんに限るね。」

 これは母にとっては孝心ふかい言葉であった。子供達から感謝され尊敬され、存在価値をみとめられることが、社会的廃物と化しつつある身には、この上ないすくいであり喜びであったのだ。

 「お母さんのおすし、今度はしばらく食べられなくなるわね。」

 「上海にゆく時お弁当につくってあげよう。どうもね、どう考えても、わたしは上海にはやりたくないわね。まるで崖下にお前を突きおとすような気がするよ。」

 母のこの感情は、結婚話がおきた当初から今だにれんれんとして続き、渡航の日が近づくにつれて、その思いは胸の中に凝結してしまって、苦悩のかたまりのようになってしまったらしい。娘を遠くへはなしたくない~しかし今となってはやらないわけにはいかない~こうした感情のディレンマの中にあって、せめて婿でも「お母さんお母さん」と親しんで来るような男ならいいのだがと思った。

 「あんなに気位の高い婿ってあったものでない。」

 自分のつくる雰囲気が相手をよせつけないことなど全然計算に入れないで、一方的に戸松に対して不平をならしていた。

 この二人の間は、そもそも出発がわるかったのだからしょうがない……と、わたくしはすっかりあきらめきっていた。

 「登志子さん、戸松さんがよんでいらっしゃるわよ。」

 客間で無口な夫をたすけて、愛想をふりまいていた義姉に声をかけられ、わたくしはあわてて立上った。夫婦そろって招待されたのに自分だけこっそり茶の間に入りこんで、好物だけをたらふく食べたことが、急に罪ふかいものに思われてきた。

 戸松は食欲がなかったのか、料理にもあまり手をつけず、すしもたった一つ食べただけで、皿の山はくずれていなかった。

 「時間がおくれるから、もう失礼することにしよう。」

 「まあ、全部召上ってからになさいませ。」

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  1. 2014/02/17(月) 12:42:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 義姉がすすめるのを、

 「いや、又きますから……」

と、ふりきるようにして、テーブルをはなれて挨拶をはじめた。この家に来て、御自慢のすしをこんなに残したら、母のほこりを傷つけることは間違いない~と、心にかかったが、さりとて戸松を引きとめて無理に食べさせるだけの勇気はおこらなかった。

 母も出てきて挨拶をしたが、ちらっとテーブルの上に目を走らせたまま、別に表情は変えなかった。義姉がひとり気をもんで、玄関に下りてしまったわたくしを尚もしつこく引止め、

 「登志子さん、お弁当におすし持っていらっしゃいよ。今夜おそくなるとお腹がすくわよ。あなたはいいでしょうけど、戸松さんはあんまり召上っていないのよ。」

と、嘆願するような声ですすめた。兄も、

 「もって行った方がいいぞ。」

と、言葉をそえた。

 戸松はもう門の方に向ってゆっくり歩き出している。声をかけて待ってもらったものかどうかとためらっていると、母の声がして、

 「きらいなものを持たせてたって迷惑じゃないか」

と兄夫婦の言葉を封じてしまった。その声を後に、わたくしはそそくさと戸松の後を追った。

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  1. 2014/02/18(火) 09:30:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 白野弁十郎の死

 明治座にかけつけた時は最初の一幕はもう終りに近づいていて、演劇に暗いわたくしには、途中からでは何が何やらさっぱり要領をえなかった。兄達三人はみな歌舞伎に明るく、特に三兄は坪内逍遙を尊敬して、早稲田で英文学を学んだ男であるから、暇さえあればシェイクスピアの戯曲のせりふを声色もどきに声たかだかと語ったり、歌舞伎の役者のせりふをまねたりしていた。

 彼らはしげしげと演劇を見ていたようであるが、わたくしはこのように大きな劇場で芝居を見るのは初めてであった。

 次の出し物までの長い幕間、戸松も周囲の人々も立上ってぞろぞろと廊下に出ていった。これらの人はたばこをのみたい人、生理的要求で用事をたさねばならない人であろう~それに、よく小説に出て来る劇場での見合というのは、こんな時間になにげなく行われるのであろうか~と、まばらになった人影をそれとなく見廻しながら、ぽつねんと長い間待った。

 よび立てるようなベルの音がひびき渡って、人々はあちこちの入口からいっせいに入ってきた。戸松ももどって黙って席についた。

 次の芝居は「白野弁十郎」という演題で、徳川時代を背景にした中級武士を描いたもののようであった。プログラムの解説には、これはフランスの有名な戯曲のシラノ・ド・ベルジュラックを日本的に脚色したものであると書いてあった。

 白野を演ずる島田正吾は、仰天型の先の方がうす赤い天狗鼻をつけ、紋付に縞のズボンといういでたちで、円転滑脱な芝居をえんじ、みにくい白野に親愛と共感を覚えさせた。

 儒教的教養をもつ日本の武士を既成概念としてもっていたわたくしは、初めの中はこの垢ぬけたシャレを巧みにしゃべりまくるフランス的白野に、背景から浮出したような奇異なものを感じたが、三場、四場と進行するにつれて、日本的ならざるそうした雰囲気もいつしか気にならなくなり、白野の人間的魅力にひきつけられていった。

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  1. 2014/02/19(水) 13:25:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 剣にかけては不適の腕をもち、数々の手柄話をもつ白野は、酒場にあつまる武士達の間では、ずい一の人気者で、彼は小味のきいた巧みなシャレをまじえてその手柄話を雄弁に語った。それは決して自分の力を誇示するためとか、相手を威嚇するためとかのものでなく、まるで大人が子供に自慢話をきかせる時のように、自分より力のない者に夢をあたえるかのように、面白く愉快な話ぶりであった。

 又彼はきむずかしく激しいところもあって、自分のみにくい大きな鼻を人が遠慮して見ないようにすると、これが見えないかと激怒し、しげしげと見ると尚のことおこった。

 剣の達人であばれ者の雄である白野は、他の一面に深い清らかな詩情をたたえている人であった。彼は多くの詩や戯曲を書いたが、それを社会に発表して名声を求めるというようなことはしなかった。当時の有名な作家が彼の戯曲の一場をぬすんで劇場で演出し、それが大評判をはくしていることがわかっても、彼は一向意に介さなかった。

 彼の創作はあくまでも自己の心の歌であって、自由に思い、自由に表現する、只それだけでよかった。時たまそれを人がどのように利用しようと、彼の関するところではなかったのである。わたくしはここに彼の人間としての純粋性の一つを見た。

 このように多彩な才能をもつ白野を、時の権力者がすておくはずもなく、出世の機会やさそいもあったが、地位のとりこになったり、権力の亡者になったり、金や財産の番人になることは、白野のもっともけいべつするところであった。地位や金や名誉の衣が、いかに人間を圧迫してゆがめていくものであることか~そうした重々しい附属物をもつことは、真の人間性からはそれてゆくことであると彼は考えていた。

 この一面の心境は、親鸞やキリスト等とも共通するものである。一切の社会的、物質的欲望から解放された、生命力にみちみちたこのような人間の生き方は、若いわたくしには限りない魅力であった。

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  1. 2014/02/22(土) 11:22:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 このように自己の純粋性に忠実な白野に美しい恋人があった。いやこれは彼の一方的な片想いなのである。奇形の鼻の所有者である彼は、自分の恋のみのることを求めてもいなかったが、相手も彼を恋愛を語るべき異性としてみとめていなかった。

 その憧れの的である彼の従妹は、皮肉にも彼の友人の美青年に思いをよせていた。彼女は上流家庭の娘であるから、簡単に青年に近づくことは出来ない。その青年の方も彼女に恋情をもやしているのだが、これも遠くから只身をこがす思いでながめているだけである。高い教養をもつ娘をかきくどくには、青年はあまりにも詩情に乏しく、近づけば幻滅をあたえるだけだということがわかりすぎていた。

 白野は自分の恋をぎせいにして、この美しい男女を結合させてやろうと決心し、従妹の部屋の窓下(二階の)にこの青年をつれていって、自分の胸にわき上る彼女への思慕を、青年の口をとうして語らせた。顔姿は美しいが、文学的才能をもたない武骨な青年は、しまいには白野の言葉を巧みに復誦出来なくなる。すると白野は自ら直接娘にかたりかけ、娘はその言葉の美しさに感激して、自分の部屋に上って来るようにすすめる、白野はためらう青年をおし上げるようにして、二階の彼女の部屋にあがらせる。(フランスならば、ベランダというところであろう)ここに二人の男女は決定的な関係になり、結婚につきすすむのである。

 結婚するやいなや、青年も白野も戦場に向うこととなり、ここでも彼は青年に代って、つきせぬ自分の想いを娘への手紙に書いた。戦いはだんだん苦境におちいり、最早生命の有無もおぼつかなくなった時、彼はこの世における最後の愛の言葉を書き、青年の名で送らせた。

 驚いた娘は、男装して戦火の中をくぐりぬけ、やっとの思いで愛人の陣地にたどりつくが、不運にも青年は弾丸にあたって死んでしまう。その亡がらにすがりついて、彼女はくどくどと二人の愛情が永遠であることをちかうのである。白野は終始それを冷静にみまもっている。

 この娘にかくも深い愛情と嘆きをあたえたものは、白野の心からくり出された愛の詩句であったのだ。青年の美貌は乙女の心をとらえる単なる看板にすぎなかったのである。娘の愛したのは白野の心であった。白野はささげきった自分の心が、相手の魂をうばったその事実だけで満足した。そしてこの秘密は、青年の死によって永久に封ぜられたはずであった。

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  1. 2014/02/23(日) 13:14:36|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 愛人を失った娘は、青年との誓いをまもって尼僧となり、終生亡き人の魂に仕える身となった。戦後白野は土曜毎に彼女をおとづれ、いろいろ慰めたり、一週間の出来事を日を追うて読みあげてやったりした。

 彼が最後におとづれた時、彼は瀕死の重傷の身であった。前日彼を敵としてつけねらう者のため暗殺をはかられ、下劣な方法によって頭の致命的な傷をうけた。危篤状態にありながら、白野は娘との約束をまもり僧院に出かけてゆき、庭の木の下で刺繍をしている娘に、苦しみにたえながら平常とたがわぬ態度をもっていつもの通り話してやる。色々話しあっている中に、娘は命につぐ宝として大切にしている例の最後の手紙を白野にみせた。彼は友人の名をとうしてうったえた自分の魂のささやきを、声をあげ感情をこめて読みあげる。

 日はすっかり暮れおちて、文字もさだかには分からないようになったが、彼は片手に手紙を握ったまま天の一角を見上げながら、手紙と寸分たがわず朗々と読みあげていった。この手紙の一語々々をもれなく暗記している者は、この世に自分以外にないはずと思っていた娘は、仰天するほど驚き、その真にせまった白野の声に、かつて自分が心をうたれたその声と共通のものを発見する。

 「窓下からわたしに語りかけたあの時のあの声は、あなただったのではありませんか。あの心をゆりうごかすような美しいたまずさも、あなたのものだったのではありませんか」

 自分が恋したっていたものが、白野の精神であった事を知って、彼女は狂気のように、おとろえてゆく白野にすがりついていった。

 刻々と死期のせまる白野は、くるしい息の下でそのいずれをも否定し、亡き青年を最愛の者として胸にいだいていくようにすすめるのである。そしていつもの通り週報を読みあげる。

 「月曜日○○○○、火曜日○○○○、水曜日○○○○、……土曜日、白野弁十郎暗殺にたおる」

 悲痛に読みあげた彼は自分の人生は失敗であった、死に方まで失敗であったとつぶやく。しかし彼は最後の精根がつきはてるまで、肉体の苦しみとたたかい、刻々とおそいくる死の力に勇然とたちむかい、一本の木に背をもたせたまま武人らしい雄壮な立往生をとげてゆく。

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  1. 2014/02/24(月) 13:17:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 女性に対する愛の純粋性、友情の純粋性、他のために自己の一切をあたえて惜しまぬ寛容さ、死の最後まで、だんまつまの苦しみの中にも、邪悪とたたかい自己をくずさぬ男らしい気魄~役者が演じていることをすっかりわすれさせられ、島田正吾即白野弁十郎であるかのごとく、彼のため惜しみなく涙があふれ出してきた。戸松もハンケチをとり出して、さっきから涙をふきつづけている。よほど感きわまったものと見えて、眼をふいたり鼻をかんだりなかなか忙しい。

 幕がおりても二人ともぼう然としていたが、

 「さあ帰ろう」

と、声をかけられて立上った。

 大木を背に悲壮な死をとげた白野が、幕の向うにまだいるような気がして、人波におされながら、みれんがましく何度も何度も舞台をふりかえって見た。

 場外に出てはっと気がついてみると、たしかに前をあるいていた筈の戸松の姿が見えない。彼とわたくしとの間に、どんどん人がわりこんでしまって、いつの間にか遠くはなれてしまったものらしい。人波をかきわけて探してみたが、彼の姿は近くには見つからなかった。

 おそらく彼も感動のあまり、夢遊病者のように足のおもむくままに出てしまったものであろう。このように感無量の時には、かえって独りの方がいいかも知れないと思われた。

 わたくしの頭の中には、人間としてのあらゆる欲望を超越して、自己の真実に生きぬいて行った白野がやきついてしまい、彼が奇怪な鼻のもち主であったということにさえ、身近な者に対するような同情と悲しみを覚えた。わたくしは、夜の歩道をしみじみとした思いにひたりつつ、有楽町の駅に向った。

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  1. 2014/02/25(火) 12:55:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 誤解

 江戸川アパートに着いた時は十時を大分まわっていた。早寝の習慣の先生夫妻は、それまで起きて待っていて下さった。

 「おや、登志子さん、貴方ひとりでおかえりになったの、戸松さんは?」

 こまを夫人はひどく驚いたように、息をのむようにした後、きつ問するような調子できいた。

 「はぐれてしまったものですから……」

 「さがしてごらんになったの?」

 「はあ、しばらく探してみましたがわかりませんでした」

 夫人は先生の方に眼を移し、いったいどうしたというのでしょうね~と問いかけるような暗い表情をした。

 「戸松君も、今に帰ってくるでしょう」

 先生はさりげない顔で、なぐさめるような眼をわたくしにそそいでいわれた。この一言はなぜかわたくしの胸をつよく打ち、もっと真剣にさがしてみればよかった~と、ひしひしと後悔の念がわきあがってきた。

 わたくしは先生の顔を凝視することが出来なかった。じっとうなだれて、膝にかさねた自分の手の無格好な指を、ちぢめたりのばしたりしながら、胸の中で一つのことを考えつづけた。

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  1. 2014/02/26(水) 11:12:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 わたくし共はどうしてこうも心が通い合わないのであろうか?わたくしが積極的でないところに原因の全部があるのであろうか?しかし、戸松は彼の人生を急行列車で走っているような男である。それに比べわたくしは、ホロ馬車でことことといくような人生である。とび移って行こうにも、方法もない程距離がありすぎるのだ。わたくしが親しんでなにもかも打ちあけて話したところで、彼は足元にじゃれつく子犬ぐらいにしか感じないかもしれない。わたくし達は義務的な夫婦という域から、一歩も前進していないのである。

 まあいい、どうせ人生はバクチのようなものだ。丁とでようが半とでようが、自分がかけた道であれば、どのような苦も楽と変じていくべきである。いそぐまい~、人生は重荷をおうて遠き道をゆくが如し~と、封建時代の政治家もいっているではないか。

 世にいう夫婦愛とかいうものは、十年、二十年、三十年と、年を経なければ生まれてこないものかも知れない。それでいいではないか。結婚生活というものは、急速に自分の思いどおりに行くものではなくて、具体的生活の一つ一つを通して、お互いの心の一面々々をさぐりあててゆくものなのだ。そこに又、夫婦の精神生活の妙味があるのかもしれない。

 だまりこんでいるわたくしを前にして、先生も夫人も、この若い夫婦をもてあましたような表情で、ぼんやり考えこんでいられた。

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  1. 2014/02/27(木) 09:18:09|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 小半時もたって、勢いよくドアのあく音がして、戸松が帰ってきた。

 「まあ、戸松さん、登志子さんは先に帰って心配していらっしゃったんですよ。あなた、ずい分おさがしになったんでしょうね」

 夫人は立上って迎えながら、戸松を見上げるようにして半ば戸松に同情的に、半ばわたくしをかばうように、その場の空気をやわらげるような調子でいった。

 「はあ、あとからついてきているとばかり思っていたんですが、いなくなりましたから、わたしは新橋駅から帰りました」

 戸松は別に心にとまっていなかったというように、あっさり云ってのけた。

 淡泊すぎる程情味のない若夫婦を前にして、夫人は長い人生の苦労でおちこんだのではないかと思われるような、くぼんだ大きな眼に一層うれいをこめて、わたくし達を見比べていた。

 戸松はその場の雰囲気に気づかぬ風に、早速今見てきた芝居を先生に報告し、島田正吾という役者が如何にすぐれているか、新国劇をいかに自分が愛好しているかを雄弁に語った。彼とわたくしとの理由のはっきりしない白々した関係など、彼は一向に気にかけてもいないような態度である。

 翌朝わたくしは三兄のところへ出かけた。彼の家は大塚にあって、江戸川アパートからは距離的に近かった。戸松が今夜大泉の実家で一泊したいというので、前もって兄嫁に連絡してもらわねばならなかったのである。

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  1. 2014/02/28(金) 15:38:28|
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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
現行憲法廃棄
日米安保破棄

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