いしずえ

第一巻春雪の巻

 牧谷や堀下の家族を、故国からつれて来るための一切の費用が、彼の責任にかかっていたことを知っていたから、彼が金に窮していることも当然で、問うことすら心ないわざに思われた。

 東と南に窓をもつこの部屋は、朝六時になると、カーテンを通して明るい光が一面に流れこんで来る。その頃になると、公園の小鳥の鳴き声が一きわしげくなり、わたくしはびっくりしてとびおきた。

 ふと、隣りの床をみるともぬけのからで、彼はもう隣り部屋で書物によみふけっていた。

 ねぼけ眼で彼のいる部屋をうかがうと、ふりかえって、

 「まだ早いじゃないか、もう一時間、ねていなさい」

という。まるで父親のような態度である。

 七時過ぎまで読書して出勤の支度をすると、彼は一杯の湯ものまずに出かけていく。湯をわかすべき薬缶もなければ、水をのむべきコップもないのだ。

 彼を送り出すとドアーにしっかり鍵をかけ、夕方までわたくしは籠城である。階下と三階は亡霊でもひそんでいるようで気持が悪いので、二階の畳の部屋に内から更に鍵をかけた。

 この頃の上海は国際的悪の盛り場となっていた。

 そうして、あらゆる人種が雑居していて、人間悪を露出していた。

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  1. 2014/11/01(土) 08:47:19|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 人心は荒廃し、人は金と欲望によって動かされていたから、うっかり人を信用することも出来なかった。

 ワンポーツにのった婦人が、とんでもない所へつれていかれて強姦されたり、殺されたりした。又町には毎日のようにテロ事件が発生し、事件のおきた地域は、一時間も二時間も犯人を捜査するために通行止めになった。

 土地に不案内なわたくしは、そういう噂をきいただけで、一人では一歩も外に出ることは出来なかった。

 わたくしの自由は外にむかって解放されることではなく、むしろ六枚の畳の限られた空間の中にあったのである。この中ではわたくしは何の圧迫も恐怖もうけることなく、公園の美しい自然の色に向かいあって、自由に思い自由に読書することが出来る。いつしかわたくしの心は詩想にみち、孤高をたのしむようになっていた。

 夕方になると戸松が帰ってくる。そしてわたくしをともなって彼の知り合いの食堂につれていく。

 わたくしは定食をたべ、彼はジュースをのむ。

 一日一回の食事であるが、これという仕事もないのであるから少しも苦痛ではない。むしろ適当な食事のようにさえ思えた。人間が三度食べねばならないというのは一体誰がきめたのであろう。わたくしは一回で十分だ。だからこれでいいのだとわたくしは考えた。

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  1. 2014/11/02(日) 11:06:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 家に帰ると戸松は又コツコツと書き物にふけりわたくしはベランダに出て星を眺めた。

 夜は不思議にも人間を過去へとつれもどす。昼間は孤独をたのしんだわたくしも、夜になると孤独な佗びしさを感じ、母や兄弟と口でまかせにしゃべりあった東京の家を思い出す。

 そうすると、郷愁が潮のようにわきあがってきて、流れ星になってこの夜空をとんで帰りたくなってくる。日本と中国が地つづきであるならば何百里の山野をもいとわず今すぐにでも出発したい。夫にはまだ、この思いを引きとめるだけの力はない。彼の心はわたくしにとっては、まだまだ霧の彼方にあった。

 こうした生活が半月もつづいた或日、戸松は軍から給料をもって帰った。半分は弟や妹達の学資に送らねばならないので、残る金額はやっと生活を維持する程度である。

 「とにかく生活はこれでまかなってもらいたい。主婦というものは一種の請負業のようなもので、定められた金額の中で、どのようにきりもりするかは貴女の勝手だ。一つ貴女の頭のよさを見せてほしい。」

 乏しい生活費を、彼は堂々と権威をもって差出した。これでは足りる、足りないの文句のつけようもなく、只ありがたく受けとるのみであった。

 この頃になると、滬西をたずねていた人々が、方向を変えてこの七友小築に毎日のようにおしかけて来るようになった。

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  1. 2014/11/03(月) 23:40:33|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 仕事の関係の人、新家庭訪問にくる人、結婚を祝福するためにくる人、さまざまの人が何かすこしづつ持って来る中に、いつしか家庭用品が一とおりそろってしまった。

 これらの来客には、軍の購買からタダのように安いビールを買ってきてのませた。料理などつくってもてなすと、五日で一ヵ月の生活費がとんでしまうので、来る日も来る日も塩豆とするめである。

 中には結婚祝に自宅や料亭に、わたくしどもを招待して御馳走してくれる人もあった。星井輝一は自宅に招待して夫人の手料理を御馳走し、戎井重利は一流の料亭に案内した。もっとも感激にあたいするものは、鈴木信一の西湖への招待であった。

 西湖の東岸に杭州がある。ここに傅式説という浙江省の省長であり南京政府の要人でもある政治家が住んでいて、相当の人物として知られていた。戸松の目的は、その傅式説氏と会うことであった。紹介者は鈴木信一である。

 只まん然と自然の中にあそび楽しむということは、彼にはできないのである。安息と静寂の中に没入するには、彼の血潮はあまりにも熱しすぎている。絶えず考えたえず悩み、たえず前進していなければならないのだ。彼にとっては、女性も又静そのもので、動の対象ではなかった。妻という存在も、丁度この旅行の西湖のように、人生の目的にむかうにあたっての一種の景品にすぎないのではないかとさえ思われた。

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  1. 2014/11/04(火) 13:21:28|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 中国の汽車

 七月に入ると上海はもう真夏である。駅の構内はむれるように暑い。

 鈴木はわたくし達を1等車に案内すると、自分は外の車に移ってしまった。気をきかせたつもりなのかもしれない。

 車内は細長い応接間のようである。三分の一には長いソファーが窓側につけられ、三分の二には大きな安楽椅子がゆったりと場所をとって並んでいた。そして、その一つ一つの椅子に扇風機がそなえつけられている。

 わたくし達はソファーの方にならんで位置をとった。安楽椅子には中国の金持の娘らしい四人連れが、なにやら食べ物を口にはこびながら、しきりにはしゃいでいる。客はこれだけであった。

 中国の交通は昔から南船北馬といわれ、殊にこの江南地方は網の目のように運河が通っているというから、汽車にのる人間も少ないのであろうとわたくしはぼんやり考えていた。

 ところが、ふと後の窓をふりかえって見て驚いた。

 一つ向こうのプラットホームに、古ぼけた列車が発車をまっている。その窓にはなんとカボチャを並べたように土色に日やけした顔が重ってならんでいるではないか。

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  1. 2014/11/05(水) 10:40:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 車体は普通の大きさであるのに、二階式になっているらしく、下の窓に七つ八つ重っている顔の上に、更に三つ四つの顔が並んでいる。一つ一つの窓に鈴なりになったようなその顔は、満々たる濁水を満たしている揚子江のごとく、無表情なうちにも何か底知れぬものを感じさせた。

 彼らは無言のまま、こちらのぜいたくな展望車をじっと眺めている。それは我々が天空の星をながめるごとく、存在はみとめても自分には全く無縁のものとして遠望している態度である。

 彼らは知らないのだ、彼らの労働力がこの国を支えている一つの力であることを~若し彼らがそれを認識し、過剰に意識しはじめたならば、おそらく彼らはこちらの汽車に猛然とおそいかかってくるにちがいない。

 しかし、彼らははげしい夏の日のさしこむ窓に重なりあったまま、汗をふきふきじっと放心したような顔をしている。神は人間を運命に従順たらしめるよう躾けたのであろう。それにしても、人間の社会は、なぜこんなにも貧富の区別をことごとに、これでもかこれでもかというようにつけなければならないのであろうか。人間をこれほどまでにあくどい者とは思わなかったであろうアダム・スミスの夢は裏切られ、この世は富と力によって、天国と地獄にわかれるのでないかとさえ思われる。

 彼らの汗と力によって支えられている彼らの国土で、日本軍に関係があるというたったそれだけの理由で、しかも彼らの面前で、わたくしは今こうして豪奢な旅に出ようとしているのである。わたくしは一種の罪悪感にかられ、彼らにたいしてすまないと思った。

 やがて彼らの汽車は、重い車輪の音をひびかせながら出ていった。貨物列車に窓をくりぬいたようなその粗末な汽車は、最後の箱の最後の窓までも、ぎっしりと日焼けと垢にくろずんだ人間の顔がつまっていた。

 こちらのぜいたくな車窓から、これを平然と見ている人があるとしたら、わたくしはその人の人間性をうたがいたい。

 能力によって私生活に相違が生ずるのは仕方がないとしても、公共の施設にこれほどまでに差違をつける必要があるだろうか。この国はこのようなひどい不合理性を、何時かは解決しなければならない時が来るであろう。

 生活につかれきった人々を満載した汽車は間もなく見えなくなり、わたくし達の汽車もガラーンとした車内に涼風を流しつつ走り出した。

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  1. 2014/11/06(木) 09:01:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 西湖にあそぶ

 行けども行けども果てしなくつづく緑の水田、その緑の生いしげった彼方を、ゆっくり棹さしてゆく人の姿が点在している。これは、この大平原を縦横に流れているクリークを、小舟でゆく農民である。

 気候おだやかなこの水郷の地は、地味が豊饒であるから、古来中国のもっとも主要な米産地となっていた。それゆえに、古くより「蘇杭みのれば天下足る」といわれ、杭州と蘇州の米の産額が天下の豊凶を左右してきたという。

 杭州は中国の豊庫ともいうべき肥沃地帯を背に、杭州湾を前にした古都である。

 わたくしどもの汽車は、南へ南へと約四時間も下った頃、この江南の要地杭州の駅に着いた。ここから軍の自動車で西湖の西岸に出た。

 湖岸の道路は幅広くきれいに舗装されていて、老いた揚柳の並木が湖をとりまくように生いしげっていた。更に湖をいたわるかのごとく、肩をつらねてとりまいている丘のようにひくい山々は、なだらかな傾斜をなして、そのすそを湖畔の道までひろげている。

 そのあざやかな緑のもすそを飾るように、美しい洋風の建物が、点々とちらばっていた。これは中国に居留している欧米人の別荘であろうか。その中には、豪壮なホテルのようなものも大分あった。

 鈴木は、山すそにある大きなホテルにわたくし達を案内した。

 看板に、「新々飯店」と書いたこのホテルは、半分を民間用に、半分を日本軍専用の旅館にしているらしく、わたくし達が通されたところは軍の将校用の部屋であった。

 荷物をおいて一休みすると、わたくし達は再び軍の車にのりこんだ。はげしかった夏の日もすでに山の彼方に姿を没し、湖辺は宵のよそおいにかわろうとしていた。

 夕もやの下りはじめた湖面は、満々と水をたたえて鏡のごとく静まり、これからはじまる夜の静寂を待機しているかのようである。

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  1. 2014/11/07(金) 09:50:06|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 見渡せば飄々としてひろがる湖上の中程に、水景を一段とひきたてるかのごとく樹木におおわれた岬がつき出していた。

 わたくし達はこの岬にむかってドライヴした。近づいてみると、ここは平坦なドライヴウェーになっていて、湖面にはさまれて、老柳の並木道がまっすぐに東岸にむかってのびていた。先端に近いあたりに、小さな寺院があった。わたくし達はそこから引きかえして湖岸にかえり、しばし湖にそうてこの快適な道路を走った。

 おそらく、これは西欧人の行遊のためにつくられた道であろう。天下の絶景として、遠い昔から中国の詩人達によってたたえられ、この民族の憧れの地として親しまれたであろう佳景も、今では他国の人々のほしいままになり、彼らの好みにあわせようとしているかのように思われる。

 新々ホテルも日本軍が接収するまでは、西欧人向きのホテルであったのかもしれない。一切の設備が洋式になっていた。

 日本軍が使用している方は、部屋も食堂も将校用と下士官用とにわかれているらしく、自動車を運転してくれた軍曹に一緒に食事をするようにすすめても、彼は辞退し何処かへ姿を消してしまった。

 「将校食堂で食べると、食べた気がしないんだそうですよ」

と、鈴木はこの軍曹の純朴さを面白そうに笑った。

 わたくし達は部屋は二階にあって、湖に面していた。

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  1. 2014/11/08(土) 08:46:26|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 湖の朝は早く、五時には一日の序曲が雄大に荘厳に奏でられる。

 窓をあけると、さわやかな空気がすうーと流れこみ、わたくしは外の景観にしばし驚漢の眼をみはった。

 真赤な太陽が、はるか彼方の東岸の空に、今のぼりはじめたところであった。東の空は一面に明るくそまり、そこから今日の一切の希望が生まれてくるかのようである。

 ただようようにゆるやかに流れる潮風に、湖面は細かく乱れ、金色の光がキラキラとくだける。

 夕べの西湖もよかった。しかしそれは、希望を失ったこの老大国のように、おっとりとゆたかな感じではあるが生気を失っていた。だが、朝の西湖の新鮮さはなんとすばらしいことだろう。

 水近く亭々とそびえる老柳は、中国の古い歴史の名残りをとどめんとするかのごとく、がっしりと根をはり、ゆったりと枝をはり、見るからに中国の尊大さを象徴していた。

 昨日は気づかなかったが、丁度このホテルの前の岸近くには、一面に睡蓮の葉がむらがり、うす紅色の花が点々と咲いている。朝の光をうけて、それはこの世のものと思われないくらい清らかで生々としていて、生命そのもののようにさえ思われた。

 ふと、どこからあらわれたのか、一人の男の子がたらいのようなものを水辺にうかべ、その上にのりこんだと思うと、両の手で水をかきながら湖中へとただよい出た。彼は水連のむらがるあたりに近づくと、なにやらしきりに採集をはじめた。食用の水生植物でもとっているのであろうか。

 この生気にみちたすがすがしい大自然の中に、かれんな水連と無心な子供の姿はいかにもよく調和していて、中国そのものの風物であった。

 わたくしは、この時はじめて中国の西湖を見た思いがしたのである。

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  1. 2014/11/09(日) 08:37:03|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 中国の政治家

 おそく朝食をとると、鈴木はここから更に南の任地に向かい、わたくし達夫婦は二人乗の人力車にのって杭州に向った。その車は大型の人力車で自転車でひっぱるようになっていた。

 途中に日本兵が五、六人守備していて、通行人を監視していたが、人通りはほとんどなかった。わたくし達は日本人であるから、車にのったまま目礼してそこを通りぬけた。

 ところが驚いたことに、彼らはいっせいにわたくし達にむかって大声をあびせかけたのである。しかも、それはいやしい冷かしの言葉であった。まるで腕白盛りの中学生のように、思い思いの事をいってやじっているのである。

 思いがけない襲撃にわたくしはすっかり面喰ってしまって、自動車にすればよかったと後悔した。戸松が軍服でも着ていればこんな目にも合わなかったであろうが、彼は白い背広を着ていたし、わたくしも派手な和服をきていたため、行楽の男女の一対として彼らのあなどりと羨望を集めたのであろう。

 両脇に冷汗をかきながらそこを通りぬけ、湖の北岸を東にしばらくゆくと杭州に着いた。つまり西湖の東岸である。

 ここはその昔南宋の高宗が金軍におわれて揚州から南下して行在所としたところであるが、それから約一五〇年の間南宋の首都となった。

 おだやかな気候と美しい風景、それに豊かな物産、水陸の交通が便利なことなどが、逃げのびてきた落人をのんびりおちつかせてしまったものであろう。この時より、杭州はめざましい発展をとげた。

 西湖や銭塔江のような雄大な自然にめぐまれ、町の内外にはいたるところに運河が貫流していて東洋の水の都としての品格をおのずからそなえている。

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  1. 2014/11/10(月) 10:03:39|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 行き交う人々もほとんど支那服で、きざなネクタイをしめた男や、サングラスをかけて爪を真赤にそめた女などは見あたらない。町の雰囲気は、上海のようにギラギラした西欧的なものはなく、ゆったり落着いていて、中国の古都の風格をそなえていた。この町にはまだヨーロッパ化は滲透していなかったらしい。

 ここにも日本兵が駐屯していて、要所々々を数名の兵隊が警備していた。わたくしどもは車を下りて、これらの兵隊に道をきき傅式説の邸宅をおとずれた。

 古い木の門の内側に支那兵が三、四人立っていたのが、わたくし達の姿を見てつかつかと出てきた。戸松が名刺を差出して主人に面会を求めるとそれを受けとった兵隊はそのまま奥に引込んでいった。しばらくして出てきたその男は、今度はいんぎんな態度で庭の奥にと案内してくれた。

 建物にそうて七、八間もゆくと広い芝生の庭があり、その庭をかこむようにカギ型に部屋が並んでいた。まず近くの棟の中程の部屋に通された。

 ここは純然たる中国風の部屋で、壁には個性にとんだ書体の掛軸がかけられ、部屋の真中にはがっしりした四角なテーブルと背の高い椅子が数脚並べられていた。

 待つこと暫時にして、召使らしい中年の女があらわれ、更に奥の棟の一番先端の部屋に案内された。

 この部屋は洋式である。広い部屋の一隅に幅の広いソファーがおかれ、中程には数脚の安楽椅子が何気なく位置をしめ、その間にサイドテーブルがおかれていた。

 腰をかけるいとまもなく、傅式説が謹厳な面もちであらわれた。

 四角な肉づきのいい顔に眼鏡をかけている。口から顎のあたりがぐっとしまっていて、並々ならぬ意志の強靱さを感じさせた。

 眼鏡にさえぎられた眼の光ははっきりはわからないが、おそらく心深く考える人の不動の眼であったにちがいない。一見して多くの体験を多くの苦悩をふみこえてきたと思われる風貌であった。

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  1. 2014/11/11(火) 10:40:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 軽く挨拶がすむと、わたくしは戸松の命ずるまま隅のソファーにそっと腰をおろし、傅式説と戸松は安楽椅子に向きあってかけた。

 傅式説はそう上手ではないが日本語が話せるらしく、二人はまるで真剣勝負をするような隙のない姿勢で語りあっていた。お互いの思想をさぐりあうかのごとく、又お互いの技倆をためしあうかのごとく、一語々々に力をこめた話しぶりである。

 戸松は日中の和平運動をすすめるにあたって、目星しい中国の要人を説得して、運動を成功させるべく協力をうる必要があった。しかし一回の面会で相手の心を獲得することの出来ないことは、周仏海との交りの体験で十分に教えられている。戸松はあせらず話をすすめた。

 ふと背後に静かな足音がして、色白の落ついた婦人が、にっこりとほほえみを浮べながら近づいてきた。そして一礼すると、わたくしと並んで腰をおろした。傅式説夫人である。

 すなおな髪の毛をゆるやかな束髪にたばね、ふっくらと丸い白い顔は、しとやかでやさしい感じであった。渋みがかったピンク系統の支那服の肩から、あらわにたれている両の腕はむっちりとしていて透き徹るように白い。

 この国の上流婦人によく見るような、首飾りや耳飾りや腕輪のようなものは何一つ身につけず、いたって単純な線と色とによって、深い教養と垢ぬけた精神をあらわしていた。彼女は静かな口調で、

 「イングリッシュ?フレンチ?」

とわたくしの顔をのぞきこむようにして、英語とフランス語のどちらで話しましょうか、ときいた。

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  1. 2014/11/12(水) 10:22:04|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 又、ここでもか…わたくしはうんざりしてしまって、しずかに首をふって両方ともだめだという意思表示をした。

 彼女は又もやにっこり笑うと、無言のまま暫らく夫達の声にきき入っていたが、やがてかるく一礼すると出ていってしまった。わたくしに窮屈な思いをさせては悪いと思ったのであろう。

 しばらくして、彼女に命ぜられたのか、わたくしのところにだけ冷めたい果物が、はこばれてきた。見知らぬ男の来客には、食べ物は出さないことになっているのであろうか。複雑な歴史をもつこの国では、日本では非礼と思われるようなことが、案外礼儀にそくしているのかもしれない。

 二人の男の間で周仏海の噂も出た。しかし戸松は周と自分との関係は語らなかった。日本と国府の和平の締結を急がねばならないという意見の一致で一応話は解決した。

 具体的な相互協力は今後の課題として残したまま、わたくしどもはこの邸にいとまをつげたのである。後日熊剣東将軍の紹介で江蘇省の罹君強省長にも会っている。

 傅式説は部屋の入口まで送り、そこに立ったまま暫らくじっとわたくしどもの去っていく姿を見まもっていた。いかにも無表情なようであるが、内面にはげしい力を蔵している人間の姿であった。

 富豪の潘三省などとは大分人物がちがう。傅式説にくらべると、潘などは大分人物が軽い。傅式説はさすがに一国の運命をになっている政治家である。

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  1. 2014/11/13(木) 08:56:52|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 彼には伝統の儒教的教養の底びかりが感じられ、中国の大地の中にしっかりと根をはった大樹のような力づよさがあった。事業家の潘のように、利益のためには節を屈しても他国人に迎合していくようなところがみじんもない。

 この国にきてはじめて見る中国人らしい人間、そして中国らしい家庭であった。自国の固有性を身につけているということは、他国人から見た場合、こんなにも床しく美しくうつるものであろうか。

 わたくしは一言の言葉を発することなく、菲才な従者のように戸松の後にしたがってこの家を去ってしまったが、わたくしの胸には永久に消えることない一つの教訓がきざみこまれていたのである。

 わたくし達は、ぶらぶらと歩いて西湖の岸に出た。

 このあたりは市場になっているのであろうか。沢山の物売りが群をなして集っていた。殆どが近郊の百姓であるらしく、てんびんでかついできた籠のまま品物を売っている。中には地面にひろげている者もあった。マクワウリが盛りだと見えて、どの籠にもどの店にも山のようにつまれ、黄色い市場といってもよかった。

 水辺には沢山の小舟がつながれていたが、遊覧船とか定期船らしい大型のものは見あたらない。

 わたくし達はこの船着場を警備しているらしい数名の日本兵の方に近づいていった。すると、向こうからも一人の兵隊が待ちうけるかのように近よってきた。

 「向こう岸に行くんですが、船はどうなっていますか」

 戸松は西岸をゆびさしながらきいた。

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  1. 2014/11/14(金) 09:12:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「そうですね、もう少ししたら定期船が帰ってきますから、二十分も待たれたら出るようになるでしょう」

 兵隊は大きな腕時計を見ながらいった。支那の民衆の中にあっては、さすがに彼らも日本兵としての誇りを意識するのか、なかなか紳士的な態度である。西岸にいたあの弥次馬のような兵隊と、同じ部隊のものであるとはとうてい思われない。彼らは揶揄するかわりに、なつかしそうにじっとわたくし達を眺めていた。

 周囲の環境によって、弥次馬にもなれば紳士にもなりうる、自己をもたない人間の一面を見せつけられた思いである。

 「傅式説だよ」

 戸松の声に町の方をふりかえると、物売りの間をぬって傅式説夫妻が船つき場に向って歩いてくる。

 向こうでもわたくし達の姿をみとめると、軽く会釈をし、一そうの小船に乗りこんで向きあってすわった。

 夫人のにっこりとほほえんだ笑顔をのせたまま船はゆっくりと湖心に向ってすべっていった。

 一日の仕事を終えて、湖上に涼をもとめる睦まじい夫妻にわたくしは中国的自由と風雅な遊楽の姿を見たような気がした。

 気候、風土にめぐまれた江南の地は、昔から自由思想の旺盛なところで、人々は儒教的土壌の上に、さまざまな文化の花を咲かせてきた。

 それは深い伝統を根とした自由であったから、あくまでも中国的で大らかで尊大であった。彼らは夜通し湖上に或いは江上に、酒をくみかわしつつ或時は詩想にふけり、或時は歌弦に楽しんだのである。

 殊に杭州は水明の地である。人々は夜な夜な湖上にあそび、苦しみや悩みからのがれて、自然の懐に人生をたくしたことであろう。

 傅式説夫妻の船を暫らく見送ってから、やがてわたくし達も小舟をやとい、湖水を西へ西へと渡っていった。

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  1. 2014/11/15(土) 09:31:29|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 市場の喜劇

 西湖の旅から帰ってくると、待ちかねていたかのように多くの人々が七友小築に集ってきた。

 まず最初に泰県の特務機関の情報課長をしていた松下輔が、少女のように若々しい夫人をつれて階下に引越してきた。その時、彼は軍を退いて海軍の児玉誉士夫とともに軍需物資調達に当っていたが、戸松にすすめられて階下に移ってきたのであった。

 それから二、三日して三階の一室に、やはり軍関係のタイピストが一人住み込むようになった。今までうす気味悪く思っていたので、わたくしは一度も三階に上ったことはなかったが、彼女はいとも楽しそうに、長い階段を足音もかるくとんとんと上っていった。さすがは一人で大陸に来て自活しようというほど神経の太い女性である。

 日がたつにつれて、戸松から渡された生活費では、一ヵ月の生活が容易でないということが、いよいよ深刻にわかってきた。適当と思われるだけの食料を買おうとすれば、一日の予算の二倍が必要であった。わたくしは思案しながら、市場の中をぐるぐるとまわりあるいた。

 この市場は日本人と中国人が、それぞれグループをつくって店をひろげていた。日本人は主として加工品、中国人は野菜や魚等を売っていた。丁度、中央と思われるあたりに、日本の関西ずしをつくっている店があって、白い上衣を着た中年の男が、次から次と海苔巻や玉子巻をつくっては店先の棚に並べていた。

 わたくしはこの関西ずしが唯一の大好物であったから、しばしばこの店先で買おうか買うまいかとためらった後、結局あきらめて通りすぎてしまった。なにしろ、それは一日の惣菜代にもあたる値段であったから、逼迫した家庭経済では気軽く手のだせるものではなかったのだ。

 比較的やすいのが野菜であった。近郊からでてきたと思われるような青いモモヒキをつけた百姓姿の中国人が、同じような品物を山のようにつんでずらりと並んで陣取っていた。

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  1. 2014/11/16(日) 15:24:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 お客の大部分は、日本人の主婦であった。彼女らは中国人の売場では、外見もかまわず徹底的にねぎった。

 「これ、三ドルにしておきなさい」(支那金の円を上海の人はドルとよんでいた)

 「ダメダメオクサン、それ五ドルよ」

 手をあげて必死になって抗議している相手にもかまわず、

 「いいよいいよ」

といいながら、どんどん籠におさめて紙幣を三枚ぽんとなげて行ってしまう。

 百姓男は口の中でブツブツ云いながらも、すぐあきらめてけろりとした顔になって、次のお客によびかける。

 わたくしはこんな時をねらって品物を求めた。ねぎる術をしらないから、黙って云い値の金額をはらうと、相手は人のよさそうな顔をくすじて、「ホウホウ」といいながら、思いきりよくお負けをつけてくれる。

 国はかわっても、人情は一つである。一方的になぶられ抵抗を感じた後に、素直なものにぶつかると、人間は必要以上に善魂に立ち帰るものらしい。

 ねぎりたおすお客の先手をうって、彼らはすでにねぎられても採算の合うように値段をつけているのだが、あまりひどくねぎられた時には、彼らは立上ってわめき出す。中にはそれでもかまわず素知らぬ顔をしてもっていく客もあった。かけ値をする売手とねぎる客との間の悪循環が、今では市場の常識のようにさえなっているのであった。

 彼らは四、五歩わいわい云いながら追っていくが、仕方がないやと云うような顔をしてすぐ引返してしょんぼりする。こういう直後、彼らの云い値通りに買ってやる客があると、彼らはすこぶる愛想よく親切になる。長い植民地的政治に圧せられてきた彼らは、他国人にたいする自己防護の術を心得ているとともに、抵抗の限度をも知っていたのである。

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  1. 2014/11/17(月) 09:30:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 新家庭の失敗・闖入者

 時には、軍から野菜や肉が大量に配給になることもあった。じゃがいもが三、四貫も運ばれてきたり、曲りくねったきうりが一籠とどけられたりした。

 戸松は東北人であるから、食事のたびに漬物を沢山食べる。わたくしは漬物を必要としないから毎日少しづつ市場から買ってきた。

 きうりが届いた時に、彼は漬物をつくってくれといったが、わたくしは自信がないから彼の言を聴きながしてしまって、来る日も来る日も酢もみにして片付けてしまった。

 長茄子が一貫目ほども、とどいた時であった。戸松は夕方一斗樽と塩をかかえて帰ってきた。そして勢いよく軍服をぬいで下着だけになると、

 「台所へ下りて来い」

と云いながら階下にかけ下りていった。松下が移ってきてから、わたくしも二階の洗面所での不自由な炊事を止めて、階下の台所を共同でつかっていた。

 戸松は茄子を洗うこともせず、樽の中に一列にならべると塩をパッパッとふりかけ、

 「漬物というのは、こういう風にするものだ」

といいながら、どんどん漬けこんでいって庭から手頃な石を見付けてきて押蓋の上にのせた。

 それから二、三日たった頃、もう茄子がついた頃だから出してくれという。わたくしは蓋をとりのけて見て、

 「あっ」

とおどろいた。あのつやつやとした美しい紫色の茄子が、焦茶色のブヨブヨしたくさったような茄子に変っているのである。実家の食卓にのっていた紫紺の茄子漬を頭にえがきながら、わたくしは彼が塩加減をまちがえたにちがいないと思った。

 丼に盛って、

 「こんな色になっていました」

と、差出すと、ギョッとしたような顔で見ていたが、

 「かまわん、どうせ俺が一人で食べるんだから」

 彼はおいしそうに、もぐもぐと食べはじめた。

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  1. 2014/11/19(水) 09:11:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 この漬物が食卓に座をしめるようになって三日もした頃、戸松は独り言のような調子で云った。

 「茄子漬はまだあるのかな」

 「ええ、まだ沢山ありますよ」

 彼は一寸困惑したような顔をしたのち、

 「君、あれはもう処分してくれんか、とても食べられたものではないよ」

と、とうとう本音を吐いてしまった。わたくしが糠味噌漬の研究をはじめ出したのは、この時からであった。

 こうした失敗とやりくりの連続の新家庭に、戸松は又、不思議な居候夫婦をつれてきた。

 夫の方は二十四、五と思われるやせた男で、中国の軍服を着ていた。子造りな肉のうすい顔に、眼だけが生き生きとかがやき、青年らしい清心なものを感じさせた。

 妻の方は、二十歳ぐらい、妨げるものもなく伸びた若竹のような女で、体格もよくのんびりした雰囲気をもっていた。

 それに彼女は、妊娠七、八ヵ月とも思われるような大きなお腹をしていて、単調な木綿の中国服を着た姿は、あまりかっこうのいいものではなかった。

 「この人はね、重慶軍の少佐だったんだが、金華作戦で俘虜にしたものを、ぼくが重慶工作につかうためにもらいうけたんだよ。本来ならば銃殺される奴を助けてやったんだ。能剣東司令にたのんで、和平軍の部隊に入れてもらうようにするから一週間ぐらい家で面倒をみてやってくれ」

 戸松は彼についてはこれだけ説明しただけで、くわしいことは話してくれなかった。現地で憲兵隊からもらいうけたのは、鈴木信一で、彼が上海の軍司部に連れて来て戸松に托したのである。

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  1. 2014/11/20(木) 09:16:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 少佐といえば、日本では中年の軍人の筈であるが、こんな未熟な感じの青年が少佐であるからには、重慶軍はよほど指揮官が不足しているにちがいない。

 四億ちかい人口をもつ中国では、雑兵に不足することはまずあり得ない。彼らは広い国土と膨大な人口を唯一の武器として、追撃すれば逃避し、撃滅すればどんどん補充して、はじめあれども終る見通しもつかない戦いに、日本軍を呆然たらしめているのであるが、さすがに指導的人間の養成は急速には間にあわないものとみえる。

 そのため、このような若い青年を、中級将校として用いなければならないのであろう。

 言葉の通じない二人の居候は、食事がすむとさっさと彼らの居室にあてられた三階の部屋にと引あげていき、次の食事時になると、又のっそりと下りてきた。

 感謝の表情も気の毒そうなようすもなく、権利をもつもののごとく、平然と食事をし、悠然と立ち去っていく。

 食べよごした皿を片づけているわたくしをじろりと見ながら、微笑もうかべずに出ていく彼らの横着さには、なにかしら圧倒されるものさえあった。

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  1. 2014/11/21(金) 21:34:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 このとらわれのない図太さは、人間社会を知らない若さのためなのであろうか、それとも、波瀾多く混乱した歴史のためか、それとも人間の運命を常に左右してきた気候風土のためか~とにかく彼らには、日本人とはちがった茫洋とした神経の太さがあった。

 妻のほうが妊娠しているのであるから、栄養のある物を食べさせなければならないと思うのだが、彼女がどんなものを好むかわからない。肉のきらいなわたくしの調理するものは魚が中心であるから、彼らには気にいらないかもしれない。或日わたくしは、なにげなく戸松にきいてみた。

 「中国人にはどういうものを食べさせたらいいでしょう。かんたんでやすくて中国人むきに出来る料理はないかしら……」

 すると、彼はあきれたようにわたくしを見すえていたが、きびしい調子で、説得するようにいった。

 「この家は彼らが中心ではないッ~あくまでもわれわれが主体だよ。今まで通りやりなさい、変えることはないッ。

 彼らはなんでも食べているではないか、それなのになにを心配することがあるかね。彼らはお客にまねいたんではないよ。

 人が一人二人闖入するたびに、あなたはいちいち方針をかえるのか、そんな事では常に動揺していなければならんじゃないか。あんたは、なぜそうつまらんことに心を浪費するのだろう」

 こういう時の彼の眼は、妥協をゆるさない毅然たるものがあった。

 急に倍増した人数についての経済的問題についても、相談したいと思っていたが、これもおそらく~やれる範囲でやりなさい、空腹でなければそえでいいんだ~と、あっさり片づけられそうに思ったのだ、そのまま黙してしまった。

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  1. 2014/11/22(土) 10:42:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 妻は夫の召使いか

 居候夫妻が食事時間以外は身辺にいないということは、気分的には救われたが、いずれにしても午後になると、殆ど毎日のように他の来客があった。ことに土曜、日曜ともなると、陸軍関係の青年がビールをかかえて、肉親のもとにでも来るかのごとく気軽くやってきた。

 仕事の関係の中国人や、親交のある中国人の来訪も多かったが、戸松を利用しようとするあつかましい中国人もあった。

 時には先輩の来訪もあった。中でも風変りなのは、若い頃孫文の辛亥革命を手伝ったという老人があった。彼は松本蔵次といって、元海軍の軍人であったが、生来血気盛んな人であったから、冒険的人生をえらんだのであろう。

 孫文と親交のあった萱野先生に私淑し、その手足となって半生を大陸と日本を股にかけて活躍した。呉亜男女史が日本から書籍といつわって武器弾薬をもちかえった時、彼女の護衛をしたのも松本であった。

 でっぷりとふとった身体に、上等の洋服を着こんで、彼はいつも青年のように血色よくつやつやした顔をしていたが、頭も又色よくはげあがり、一段と風格をそえていた。彼は初対面の時、いきなり、

 「やあ、君、いい妻君じゃあないか」

と、号令のような声で云い放った。

 なんという無礼な老人かと思ったが、広野に馬を駆っているような無法で磊落なこの老人の声には、一切のこだわりをおしながしてしまうような超脱したものがあった。

 革命という時代のうずまきにもまれてきた彼には、社会一般の常識などいらざる虚飾にすぎなかったのであろう。彼はズバリズバリと思っていることを云い放ち、太鼓腹をゆすってカカと笑い放った。

 言論の取り締りきびしい時代にもかかわらず、彼の舌にかかっては、今をときめく東条英機も一かいの青二才のようなものであった。権力など歯牙にもかけないといったこの気風は、国士的浪人の特色なのかもしれない。

 彼は広東の奥に鉱山をもっていて、広東と上海の間をたえず往来しているようであった。八月には掘下をともたって広東にかえることになっていたが、掘下は彼の鉱山で働きつつ重慶との連絡をつける工作をすることになっていた。

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  1. 2014/11/24(月) 10:23:37|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 松本といつも一緒にくる中年紳士があった。宮崎世民といって華中水電公司(中国の電力会社)の重役であるが、萱野先生とともに支那革命に功労のあった宮崎滔天の甥であった。一代の熱血漢の甥にしては、いたって個性に乏しいサラリーマン然としたタイプの人であった。

 歴史的背景をもつこれらの先輩は、戸松の勇気と活動力を愛し、上海における彼の運動に親身になって声援を送っている人達であった。

 これらの先輩、同輩、後輩が、たえまなく入れかわり立ちかわり出入りしていたが、時には幾組かの客が次々と同じ時刻におとずれきて、ついには座敷いっぱいの円陣となり、時間も忘れて何時果てるともない快談に興じるようなことがあった。

 そんな時、例の居候夫婦が無表情な顔をしてのっそりと入って来る。この二人のことはすでに話題にのぼっていたから、人々は時をつげる夕の使いにでも会ったかのように、あわてて立上り、いっせいに帰りはじめた。

 騒然としたその場の空気に、二人はきょとんとしてつったっている。すると、戸松はもう一時間してから下りてこいといって再び彼らを三階においやった。

 わたくしは台所に下りて、あわてて夕食の仕度にとりかかる。

 ドアーをあけはなした向こうの部屋の窓ぎわの安楽椅子に、涼しそうな夜の服に着かえた松下夫人が、ゆったりと足を投げ出して雑誌に読みふけっているのが見えた。

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  1. 2014/11/25(火) 13:29:34|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 松下は軍の物資調達にほとんど地方に出かけているから、夫人は一人で気ままな生活をたのしんでいた。

 階下のうす暗い部屋部屋も、常に電灯がともされ、華やかな色彩のカーテンやテーブルかけで装飾されると、見ちがえるように明るい家庭らしさがみちみちて来る。墓場のように味気ない住いも一度若い女性の意欲にかかると、かくも結構な楽しい雰囲気にかわってしまうのである。

 どんな平凡な人間でも、自分の生活にたいしては、たえまなく創造性を発揮するものであるらしい。

 生活を工夫し生活を楽しんでいる彼女をちらちらと眺めながら、わたくしは配給になった肉のかたまりをごしごしと切っていく。以前は血のにじんでいる肉類をあつかう事は、我慢できないほどいやな事であったが、この頃はそれにも少しづつなれてきた。

 しかし、来る日も来る日もお客と居候の世話ばかり明け暮れる日がつづくと、なにか行きづまったような心の停滞を感ずるようになる。

 わたくしの結婚は、戸松という男の終生の召使いになることであったのであろうか……と、停滞した心の働きは、自己を中心とした小さな円の中でぐるりぐるりと渦巻きはじめる。

 うらわかい妻の夢は、結婚生活にたいする具体的な計劃と、夫の愛情にかけられていた。ところが、遠大な志をもつ夫は、絶えず仕事の上に意を用い、家庭生活の設計など考えてもいないのである。衣食住に金をかけることぐらい馬鹿馬鹿しいことはないと思っているにちがいなかった。

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  1. 2014/11/26(水) 14:27:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 第一、彼は母にはぐくまれ、多くの姉妹をもちながら、女性というものをあまり知ってはいなかった。

 ものの考え方が内攻的な女を、男と同様にあつかって、デリケートな心の動きなど察してみようともしない。それに外出するときまれば、男と同じように直ぐにも出かけられるものと思い、朝夕の顔や手の手入れなど「なんたる無駄を繰返すことか」と、あきれ且つ軽蔑した。

 彼から見れば、女性とは人生の大半を無為にすごし、つまらぬことに心を労している不思議な人種であったのだ。

 女が着物に愛着をもっている事なども、彼にはわからなかった。

 呉夫人の晩餐会によばれた時、隣りの席にいた若い徐夫人が、わたくしの夏草を染めちらした絽の着物と紗の帯を、手でつまみながらしきりに羨ましがったことがあった。その時、彼は、

 「あんなに欲しがっているんだから、その着物と帯は徐さんにあげたらどうかね」

と云ったものである。

 物資不足の内地で、母と二人で懸命にさがし求めた着物であったから、わたくしは内心あわてたが、無表情なまま黙っていた。相手に日本語が通じなかったことが、さいわいであった。

 和服をもたない松下夫人にも、一枚わけてやったらどうかという。女の着物を男の背広とおなじように考えて、季節のあうものが一、二着あればそれで事が足りると思っているのであった。

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  1. 2014/11/27(木) 11:13:37|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 ことごとに意表にでる夫の言動にまごつきながら、わたくしはその都度安部先生の言葉を胸にくりかえしてきた。

 ~沢山の学生をおしえてきたが、わたしのもっとも期待している青年です~

 先生はあの温顔を厳粛なばかりにひきしめて、はっきりとこう云われたのだ。

 この言葉を思い出すたびに、わたくしはブルンと自分の心をふるわして、一切の邪念をはらいのけた。

 そうだ、彼がわたくしに歩調をあわせてくれることを望んではいけない、それは彼の退歩になるのだ。

 彼の前進をはばむ者になってはいけない。彼と生活を共にするからには、わたくし自身の人間革命が、まず徹底的になされねばならないのだ。

 わたくしは、ふと昔の武道の達人や芸道の達人のことを思い出した。高名をしたって来る弟子に、彼らは決して最初から手をとって教えることはしなかった。掃除や身辺の世話に身を削る思いを嘗めさせながら、まずその道に入っていく精神態度をたんれんしたのであった。もともと人生ははじめから軌道にのってすすめるものではない。それが卓越した人生であればあるほど、本道に達するまでには多くの苦闘と失敗の体験が必要である。苦しみと失敗の体験こそ、人間を育てるすぐれた肥料なのである。

 人間として、女として、なんらたんれんされたことのないわたくしを妻として、彼は昔の達人のごとく、容赦なく自分の人生態度にわたくしを引き入れようとしているにちがいない。

 人の世話をし、人の力をあつめる人生に、わたくしをはじめからなじませようとしえいるのであろう。

 千客万来の家庭で、二人暮しで精いっぱいの生活費で切りぬけていけというのも、まず経済生活の基本的態度をしめすためであろうとも考えられた。

 このことは、半月も居候していた中国人夫婦がいよいよ就職がきまって出ていって、いく日かたった或夕いらい、わたくしは一層はっきりと悟ったのであった。

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  1. 2014/11/28(金) 22:21:34|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 タンスにつめられた札束

 その日、夕食が終ってから、一汗ながして下着をとりかえようと思い、タンスを引出そうとして意外に重い手ごたえがするのに驚いた。力をいれてぐっとひっぱり出すと、中に下着がぎゅうぎゅうにつめられているのに再びおどろいた。いつもは七分目位までに、ゆったり入れてあったからである。上の一、二枚をはねのけてみて三度おどろいた。

 なんと引出しいっぱいに、札束がぎっしりとつめられているのである。和風ダンスの二倍はある深い引出しの中に、千ドルづつ束ねたと思われる束が、きちっと積み重ねられているのであった。その何十分の一である千ドル一束が、わたくしどもの一ヵ月の生活費なのである。

 それ自身は単なる紙片にすぎないのであるが、その価値を知る者にとっては、やっぱり驚異であり、魅力であった。

 しかし、その次に来る心の動きは、懐疑であり恐怖であった。

 わたくしはさりげなく引出しをしめ、戸松に聴いてみるべきか、黙っているべきか、ハテどうしたものかと、立ちすくんだまま考えた。すると座敷から声がして、

 「その引出しの下着は、全部下の引出しにうつしてあるよ」

 戸松は、金については一言の説明もすることなく再び書物に眼をうつしてしまった。

 「は、はい」

 わたくしは、あわてて下の引出しをあけ下着を取り出しながら、とっさに夫の仕事上の機密にはふれることはすまいと心にきめた。

 ただ、一つの期待だけはもてた。それは彼がこれだけの現金をもっている以上、その何百分の一ぐらいは、生活をうるおす意味でくれるかも知れないということであった。半月も居候がいたのであるから、それくらいの事はするだろうと、凡俗な心は切ない希望をかけていた。

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  1. 2014/11/29(土) 23:08:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 だが、二日たっても三日たっても、彼はそのことについては何も語らない。その頃になると、わたくしにも彼の心がおぼろげながら推測されるようになった。

 ~この人は公私の別にたいする厳然たる強い意志を、わたくしに示したつもりなのであろう。でなかったら自分がこれだけの金を動かして仕事をしているのだという事を教えているか、或いは仕事の金にたいしては慾望をおこすな、足らざるを工夫せよということをさとしているのにちがいない。もしそのどれでもなかったら、彼は世界一の意地悪であるといえよう~

 心の中に自問自答しつつ、結局わたくしは、彼が人並はずれた強い意志の人であることを感じないではいられなかった。

 何年もすぎてから、その金が周仏海から毎月渡されていた日中の和平運動のための工作金であることがわかったが、当時はとうとうその真実をきくこともなくすぎてしまった。

 このことがあって以来、禁断の引出しとして、わたくしはそれに手をふれることもなく、なんの慾望もおこらなかった。

 その後、タンスからどのようにして金が引出され、又どのようにして入れられたか、戸松もついに一言も語らず、わたくしも一度もたずねて見たことはなかった。

 彼が冷たく無言の中にしめした仕事と生活にたいする態度は、わたくしに強い感銘をあたえるとともに、その反面、生活を一つにしていながらもはるかなる夫という感を深めていった。

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  1. 2014/11/30(日) 21:39:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
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国賊売国奴殱滅
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