いしずえ

第二巻受難の巻

 この部屋は客間でもあり、みんなが談合する場所でもあり、子供のあそび場所でもある。そのため、たえず誰かがいて、たえずざわついている。

 ここでは手紙をよみながら、ひそかに夫を偲ぶことも、孤独をたのしむことも、愚痴をつぶやくこともできない。堀下夫人が倉庫のような裏二階へ逃避するのも無理からぬことであった。

 わたくしは窓ぎわにすえつけられた戸松の事務机を、唯一の拠城とした。本田がなんといおうと、机の上に愛読書をかざり立てることを止めなかった。

 戦争中に西洋のものをよむのは怪しからんと彼は云う。トルストイやカロッサをよむことが、戸松の妻としてふさわしくないと云った。忠君愛国の道にはげむ者は、生活一切が国家主義に徹していなければならないというのである。

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  1. 2016/06/01(水) 21:37:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 内地でもこういう意固地な考え方が横行していた。いや、軍部が国民をそのように指導していたともいえる。

 ベースボールといってはならぬ、テニスといってはならぬ、ハンドバッグといってはならぬ等等、日用語化してしまった外国語を口にすることを禁じられていたが、無理に日本語になおそうとして、ネクタイを首しめなどと物騒なよび方をする者もあり、その徹底したとらわれ方に、たがいに苦笑しあったものであった。

 日用後化してしまった英語が敵国語であるというならば、漢字も敵国の文字でなければならない。その上、戦争を可能にしている軍隊や武器、技術、学校教育、政治経済、憲法、暦、七曜日にいたるまで、一つとして西洋の模倣ならざるものはない。

 生活自体が西洋の模倣の上にたっているにもかかわらず、どうでもよいような外見や目先のことにめくじらを立てて神経質になっているところに、日本の焦燥狼狽がろこつに現われているといってもよかった。

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  1. 2016/06/02(木) 23:43:03|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 こうした神経のいらだちは、ますます人の心を偏狭にし、トルストイやカロッサまでも否定させる。そういう書物が部屋にかざってあるだけでも眼ざわりであり、ましてやそれを愛読する者にいたっては、亡国者のたぐいとして許すことが出来ないのであった。

 あのときの本田の冷たく光った細い眼や、皮肉にゆがんだうすい口元には、わたくしにたいする批判のきびしさと反発の深刻さがにじんでいた。

 彼は、戸松さんの奥さんがこういう本を読むべきでない……といった。だが、当の戸松はわたくしの荷物をほどいて、自らの手でこれらを本棚にかざってくれたのである。

 「カロッサというのは、どういう人間かね」と、彼はきいた。また、

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  1. 2016/06/04(土) 14:17:14|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「安部先生はトルストイを尊敬していたよ。青年時代、さんざん不道徳をくりかえしたトルストイが、後年になってヒューマニティーにめざめ、やがて神の域に昇華していった人生に、非常に魅力を感じていた。

 先生はよく云っていたなあ……『わたしはトルストイを目ざしてきたが、ついにトルストイのようにはなれなかった。

 トルストイは人間悪の中から這い出て、神の高さをきずいた人であるから、その人格の底辺がひろく、根がふかかったが、わたしは良識的な場からはみ出したことがなかった。そのため彼のように底ふかく根をはって、そびえるような人生を築くことはできなかった』といっていたよ。ぼくもトルストイをいつかじっくり読んでみたいと思っている」

と、語ったこともあった。

 又、あるときは、

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  1. 2016/06/05(日) 00:36:01|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「先生はトルストイを読んだら、一応ドストエフスキーも読んだ方がいいといっていた。ぼくのことを、おそらくドストエフスキーの方により多くの共感をいだくにちがいないともいっていたよ」

と、話したこともあった。

 彼が戦争の観念で、読書まで限定してしまうような人間でないことはたしかである。人間性の真実と真理は、戦争と平和をつらぬく永遠のものであるはずだ。

 わたくしは、本田の意見を無視することにした。

 自分の内面に、夫以外の人間にタッチされることは、第一わたくしの誇りがゆるさない。本田が、たとえ、牧谷や篠原に口ぎたなくののしったとしても、彼の生意気さに譲歩することをしてはならないのである。

 だまって書物を飾りつづけ、それを読みつづけることによって、わたくしは彼の批判と皮肉を完全に無視してみせたのであった。

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  1. 2016/06/06(月) 14:14:56|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 逃避あるのみ

 わたくしは一日の大半を机の前ですごした。ここには子供も不思議とちかよってこない。あるいは、牧谷夫人が来させないように気をつかっているのかも知れなかった。

 午前中は家計簿の清書をしたり、手紙をかいたりした。内地の肉親や知人に手紙をかくことは楽しみであったが、家計簿を記入することは、砂地に文字をきざみこむように無意味なことに思われた。

 主食費、燃料費、調味料費をさしひいて、残りの副食費を一日平均にすると、六十ドルにもみたない金額である。

 その枠内でもとめた食品を、葱五本いくら、大根一本いくら、と詳細に書きこんでいくのである。時には人参と大根のねだんを反対に記入してしまうこともある。つけおとして、残額と現金がどうしても合わないときには、適当に書き足したりへらしたりすることもある。

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  1. 2016/06/07(火) 14:12:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 倹約のしようもないようなぎりぎりの家計を、明細に書きとってみたところで、一月の反省の記録になるはずもなかった。なにしろ、六十ドルで何を食べるかということに、反省の余地もないほど、頭の細胞をぎりぎりにしぼりあげていたのである。

 しかし、どんなに馬鹿馬鹿しくても、この作業はつづけなければならなかった。戸松がそれをもとめているのである。

 彼は生活を事務的に整理することを、方針としている男である。一日の出来事は日記に記入し、一月の収入と出費は正確に簿記することをもとめている。

 おそらく、これは妻にたいする彼の教育法の一つであるのかも知れない。詩や小説におぼれやすいロマンチックな妻を、現実生活にしっかりむすびつけておく一つの方法だと思っているのかもしれなかった。

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  1. 2016/06/08(水) 22:23:40|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしはときどき子供のころの田舎の生活を思いうかべてみることがあった。蔵には一年半分の米があり、物置には三年ごしの味噌と漬物の樽の行列があり、戸棚には干魚やするめの貯蔵があり、床下には一年分の芋類がたくわえられ、台所の桶にはいつも新鮮な魚がほうりこまれている。今日一日の生活にわずらわされることなく、一年先、三年先をみつめていたであろう母達の人生観は、どういうものであったろうか、と考えてみるのであった。

 社会構造が複雑になっていくにしたがって、給料生活者がふえていく。一年を単位に経済生活をしていた人間は一月を単位、半月を単位に暮すようになる。

 これでは人生観もおのずから小きざみになっていくのではあるまいか。年がら年中、経済に頭を占領されるようになったとき、人間は生の目的を見失ってしまい、空虚な人生観をもつようになり、ついには自己を喪失してしまうのではあるまいか。

 不足がちな生活費にしばられ、さいなまれている中に、わたくし自身の人生にたいする理想も、だんだんしぼんできたようだ。

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  1. 2016/06/09(木) 00:57:09|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 娘のころには、詩人達のうたう芸術的魂の世界は、すぐ間近にあるように思われた。それはすぐにも同化していける世界であった。しかし、今は、その世界がだんだん霧の彼方に遠ざかっていくような気がする。追いもとめていったところで、その中に自然にはいっていけないのである。うしろで嘲笑している現実にひきもどされてしまうからだ。生活にとらわれ、経済に魂をかきみだされているしるしであった。

 わたくしは、こうした意気地のない自分を悲しいと思った。そして、戸松の人生にたいする図太いばかりのたくましい根性を、うらやましいとも思い、憎々しいとも思った。

 彼は生活など問題にしていない。生活というものは、仕事のついでにづるものだと思っている。彼には仕事の計劃はあっても、生活の計劃はない。こういう仕事がはじまったから、こういう生活にはいる、次の計劃はこうだから、生活もこうする……と云うように、仕事の進展におうじて生活がぐるぐる変っていく。そのため、五年先、十年先、あるいは遠い未来を遠望しつつも、生活はたえず爪先たっていて、ひっくり返りそうなのである。

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  1. 2016/06/10(金) 09:36:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 だが、彼にとっては、そんなことは不安の中にははいらない。不安もまた、明日への前進力であるとおもっている。

 彼は金をたくわえておくということを知らない。あればあるったけ手をひろげ、瞬間々々を全力をなげだして生きていく。理想を日々実行していく男である。

 人生にたいしてこれほど自信のつよい男を、わたくしはかつて見たことがなかった。我につづけといわんばかりに、ぐんぐんわが道をすすみ、私生活を楽しもうともしない彼が、なぜ、足手まといになる女と人生を共にしようとしているのか、わたくしには不思議でならなかった。

 彼には、楽しい家庭をきずき、一生の生活設計をたてるという新婚夫婦の夢など、通用しそうにもない。それどころか、貧乏生活にたえ、複雑な人間関係に動じない妻にきたえあげることが、新婚生活の当面の目標であると考えているかのようである。

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  1. 2016/06/11(土) 23:46:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 しかし、この二つは、もはやわたくしの心をおしつぶしてしまいそうであった。彼がこの二つに耐えうる妻をわたくしに期待するならば、わたくしは落伍者の列にまわることになりそうだ。

 この家で孤立しそうになっている自分の位置を感じていらい、わたくしは一層彼についてゆけないかもしれないという思いにとらわれるようになっていた。

 本田の細い眼が、自分をけいべつしているように見え、牧谷のむっつりとした口が生意気な女だと非難しているようにみえ、牧谷夫人や堀下夫人の人のよさそうな落ち着きのない眼が、不満をおしこらえているように見え、やがて、それらが戸松の前に大きく立ちふさがって、わたくしの近づくのをはばんでいるかのように思われた。彼等を意識すればするほど、わたくしの心は一歩一歩戸松から遠のいていった。

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  1. 2016/06/12(日) 22:14:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼と人生をともにすることは、わたくしの力では不可能かもしれない……日、一日とへだたっていく心の空間に、不安の旋風がゆっくりとうずまき、彼らの理由のない不機嫌そうな態度を見るたびに、その速度を強め破壊の力をましていった。同士となることもできず、悪妻となることもできないならば、残された道は彼から逃避することだけだ……ついにその一点に到達したときであった。とつぜん、わたくしの本能がむっくりと頭をもたげ、あわてて警鐘を乱打した。

 その瞬間、神の聖霊にふれたかのように、粛然として思考の正座に立ちかえらざるを得なかった。

 つまり、肉体的にあまりにも彼と密着し、一つの生命にむすばれてしまっていたからである。わたくしの体内に、彼とわたくしの生命の結合がなり、新たな生命がそだっていることを、全身をもって肯定しなければならなかったのだ。それを無視して彼とわたくしの問題を考えることはできなかった。

 大変な人生にふみ出してしまったものだ……暗澹たる気持にとざされる日がおおくなった。

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  1. 2016/06/13(月) 10:22:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 ある日、村上がひょっこりとやってきた。戸松が出立していらい、彼は一度も滬西にきたことがなかった。

 「奥さん、すこしは滬西のくらしに馴れましたか」

 彼はてい重にあいさつしたあとで、つっかかるような東北なまりで云った。

 育ちのよい大らかさと善意にみちた表情であった。曇りのない心がそのまま表面ににじみ出ていて、人の心を休息させる雰囲気があった。

 「今日は先輩の留守見舞にきたんですよ。先輩の留守の間、奥さんをさびしがらせては気の毒だと思ってね」

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  1. 2016/06/14(火) 14:03:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 身体にぴったりはりついた軍服のポケットをまさぐっていたが、切符を二枚つまみ出して、

 「舞踊の切符ですよ。知っているでしょう、崔承喜っていう朝鮮の舞踊家を……

 大変な人気で、タイピスト連中がわいわいさわいでいるもんだから、前売券を買っておいたんですよ。堀下さんの奥さんと一緒にいって下さい」

 肉のひきしまった顔をくずして、にこにこっと笑った。五尺七寸もあろうかと思われるがっちりした男であるが、いがぐり頭のせいであろうか、少年のような純真な稚さがあった。

 「一月に一ぺんは奥さんに敬意を表さないと、先輩にすまんと思っているんですよ。金がないので大したことはできんが、崔承喜のおどりだったら喜んでもらえると思ったもんですからね」

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  1. 2016/06/15(水) 20:44:30|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 封建的義理人情にも通ずる、この心の深部に根ざした善意を、わたくしは尊くも嬉しくおもった。牧谷や本田とちがって、彼は戸松とわたくしを、はじめから一つにとらえている。

 「村上さん。ありがとう……上海にきてから、一度も映画も芝居もみたことがなかったから嬉しいわ」

 舞踊のさそいよりも、彼のふかい心根にたいする感謝であった。

 戸松がいつか、村上は将の器であるといっていたが、人間をありのままの姿で肯定しようとする大らかなこの態度をいったものかもしれない。

 本田は、まず戸松の妻としての条件をもとめ、牧谷は戸松の前にたちはだかって、自分の存在価値をみとめさせようとした。つまり、常に客観的にながめて、批判するがわにたっていた。

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  1. 2016/06/16(木) 17:09:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 しかし村上は、まっすぐに心の中にとびこんでくる。批判よりも情に立っている。結婚の経験はなくとも、直観によって夫婦の意義をつかんでいる。であるから、わたくしを通じて戸松に誠意をかかげようとするのである。

 そこには私心がなかった。人間の心と心をつらぬき結ぶ真心があるだけであった。上にたいするこの誠意が、下にたいして寛容と統率力になってあらわれるのかもしれない。彼にしたいよる同輩や後輩は多かった。

 それから三日ののち、舞踊見物の当日、彼は昼過ぎにわたくし達を迎えにやってきた。

 開演は四時からであったが、その前に陸軍部のしる粉を食べさせたいというのである。電車の中で、彼は陸軍部のしる粉がいかにうまいかということを強張した。とくに今日は奥さん達に食べさせる分を特別甘くしてくれるように頼んでおいたのだともいった。

 陸軍部につくと、自分の部屋には案内せずに、まっすぐ食堂につれていった。広い食堂には誰もいない。昼食がおわってから大分時間がたったのであろう、ずらりと並んだテーブルの上は、きれいに片づけられていた。

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  1. 2016/06/17(金) 23:45:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 窓に面した一隅で、しばらく待たされた。しる粉の準備がまだできていなかったのかもしれない。

 半時もすぎたころ、村上が丼にいれたしる粉をはこんできた。ごってりとした小豆汁の中に、大きな餅がぼったりと入っている。

 甘味というものに縁遠くなっていたわたくし達は、量感のあるしる粉丼に舌つづみをうった。喫茶店のうすっぺらなしる粉の味にくらべて、なんと腹ごたえのする厚みのある味であったろうか。これは、村上のまごころの味でもあった。


 感動の夜

 陸軍でゆっくりしていたためか、それとも途中の電卓が慢々的にすぎたのか、劇場についたときは四時を少しまわっていた。

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  1. 2016/06/18(土) 15:21:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 西洋風の豪華な劇場がであった。

 「ここが上海で一番立派な劇場ですよ。東京の歌舞伎座のようなところです」

 得意そうにいうと、彼は先頭に立って胸を張って中にはいっていった。

 中はうす暗く、並んでいる人影が黒々と石のようにうずくまって見えるだけである。舞台では薄紫の光線の中で、白と黄色の朝鮮服を着た男女がおどっていた。

 案内嬢に案内されて中程の席に落着くと彼はわたくしにそっと耳打ちした。

 「終わったら迎えにきます。ぼくは立見していますから……退屈になったら、これを食べて下さい」

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  1. 2016/06/20(月) 14:39:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 ずしりっと、膝に量感があった。いつ用意したのか、弁当であった。

 それからの三、四時間、わたくし達は、崔承喜の魅力にすっかりひきつけられていた。

 踊りは変化があった。一つの肉体の動きによって、人間の苦しみを切々と表現していく踊りがあったかと思うと、朝鮮の田舎の若い男女の素朴な恋を舞踊化した明るい喜劇的なものもあった。

 なかでも、演出の頂点となっているものは、崔承喜の「剣の舞」であった。

 このとき、彼女は黒いうすいベールを裾ながく腰にまきつけ、ほとんど半裸の状態でおどった。

 断髪のエキゾチックな顔に、剣の精のような清艶な陰影がただよい、しなやかなその四股は、あるときは朗々たる名月のごとき刃わたりをおもわせ、又あるときは血に飢えた猛々しい刃をおもわせた。

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  1. 2016/06/21(火) 22:02:23|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 東洋のもつ神秘さと、西洋のもつ創造的な表現力がみごとにどっしりと調和されている感があった。

 一つ一つの舞踊のはじめに、説明がアナウンスされるのであるが、北京語と英語であるからさっぱりわからない。しかし、女性のアナウンサーの甘い美しい声には魅力があった。英語よりは北京語の方が、はるかに情感があって美しい。

 おわりのベルが鳴ると、村上はどこからともなく、ひょっこりあらわれた。

 「どうでしたか」

 満面をほころばせてきいた。彼自身も満足しているようである。わたくし達が最大限の感謝と感激をのべたことは云うまでもない。

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  1. 2016/06/22(水) 18:16:18|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 劇場を出ると外はすっかり夜であった。八時を大分すぎている。

 「お茶ぐらい御馳走する金はあるけど、しかし、まあ、上海の夜をひっぱりまわしたら先輩に叱られますからね。まっすぐお送りしましょう」

 わたくし達は久しぶりにネオンの中をあるいてみたいと思ったが、口には出さずに彼にしたがって電車にのった。

 その夜床についてからも、感動は消えやらず、いつまでも胸の中をゆさぶっていた。崔承喜のエキゾチックな神秘さと、村上の素朴な真実に、萎縮していた心のすみずみまでがしっとりとうるおい、身体中の細胞がいきいきと息づいて、休息をわすれてしまったかのようであった。

 この感動のさめやらぬ中に戸松に報告しなければならない。村上の好意は、戸松にたいする尊敬の変形である。戸松に通じておくことが、彼にたいする感謝でもある。それがわたくしの義務である……村上の言葉や行動を一つ一つ思いうかべながら、わたくしはかんがえつづけていた。

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  1. 2016/06/23(木) 17:13:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 翌朝、家事がおわると、第一に手紙にとりかかった。言葉をつくして、村上の親切や舞踊の感動をこまごまとしるした。

 そして、戸松がこの手紙をよんだとき、おそらくわたくしと同じように、村上に感謝し、留守のあいだよく妻を慰めてやってくれたという謝礼をかき送るにちがいないと信じた。

 誤 解

 十日余をへて、戸松から手紙の返事がきた。わたくしの手紙を受けとった頃、彼は憲兵に追いまわされている最中であったが、手紙には仕事のことは一言もふれていなかった。

 彼の手紙は電報分のようにみじかい。要点だけを強調しているために、印象がつよい。

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  1. 2016/06/25(土) 10:54:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼はまず、夫の留守のあいだ、夫の後輩のさそいをうけて劇場に出かけ、その親切に感激している妻は馬鹿だと書いていた。人の親切にすぐ有頂天になってしまうような妻は、まことに心もとないとも書いていた。

 村上は後輩の立場にたって先輩にたいする礼を尽したのであるから立派だが、君は自分の立場を見失っているではないかと文句をいっていた。

 いきなり力まかせになぐりつけられたかのように、わたくしは手紙を手にしたまま、しばし呆然と虚空をみつめたままであった。

 やがてのこと、気をとりなおしてもう一度読みなおしてみた。じっくり読んでみると、みじかい言葉の意味がだんだんわかってきた。もっともだと思われるところもあるし、又よく理解できないところもあった。

 夫の留守中、夜間の観劇にでかけるのはたしかにわるい。目下の好意にすぐ応じるのも、たしかに甘すぎたかもしれない。しかし、村上は戸松とわたくしを一つに考え、わたくしを慰めることによって先輩にたいする礼をつくすつもりでいたのである。その好意をなぜ妻の立場はうけとってはならないのか、まずそれがわからなかった。村上の先輩にたいする敬意と誠意になぜ感動してはいけないのか、それもよくわからなかった。

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  1. 2016/06/27(月) 20:54:19|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 おそらく、彼はわたくしの手紙をよく読んでくれなかったのにちがいない。こまごまと書いたため、面倒がって飛び読みして誤解しているにちがいない……と、わたくしは判断した。

 戸松はこの手紙を、憲兵からのがれて秋田に身をさけているときにしたためたのであった。彼は鈴木二郎氏を相手に、妻への不満をもらした。

 「このごろの女は軽率でいかんよ。夫が命をはって国のために走りまわっている時に、村上にさそわれて夜間の劇場見物にいっているんだ。人の好意を妻としてどう受けとめたらよいか、さっぱりわかっていないんだ」

 さらに中学校時代の恩師の家庭悲劇などをひき出して、

 「○○先生が、信頼していた教え子に奥さんをとられたとき、訪ねていった僕達にむかって、『お前らをもう信ずることはできん』と口走って、大分取り乱していた。その時僕は反対に先生を怒りつけてやった。『先生は一人の教え子のために、すべての教え子を否定するのか、中学時代に仰ぎみた先生の姿は立派であった。今でもわれわれの胸の中に印象づよく残っているのに、今のそのとり乱した醜態は何んということだ。それが教え子にたいする師の態度か……』といって、にらみつけてやった。先生は『すまなかった、すまなかった』とあやまっていた。

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  1. 2016/06/28(火) 14:54:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 ああいう正直な正義感のつよい先生だ。信じきっていた妻と教え子に裏切られたのだから、さぞつらかっただろう。地球が破けたほどに驚いたことだろう。しかし、過ちをおこした二人は、何もはじめから計劃してかかったわけではない。男女の間というものは、一分のすきがあっても間違いに発展しやすいものなのだ。理性とか義理とかが通用しない事態がおこりやすいものだ。

 村上の態度は後輩として立派だよ。彼らしい誠実さだ。男らしい頼み甲斐のある男だ。だが、好意をしめされると、すぐ有頂天になる女房は軽率だよ。すぐに応じなければならぬ好意もあるが、心の中にうけとめて保存しておくべき好意もある。今の場合、どうすべきかの判断がつかないような女では、頼りにならないよ」

と、人間というもの、男女の機微というものに無知な妻の軽率をなげいた。

 もちろん、わたくしはそのような反応がおこることなど想像してみたこともなかった。戸松自身も親友の気安さから、何気なしに語ったのであるが、鈴木氏の心には余程の刺激であったらしい。

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  1. 2016/06/29(水) 13:20:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

と、いうのは、前にものべたとおり、村上は鈴木氏が柔道部の主将だったころの後輩で、彼が戸松に紹介した男である。彼は責任を感じた。

 彼は村上叱っておかねばならないと考えたにちがいない。彼が村上に、こっぴどい手紙を書いたことだけは確かである。しかし、その文面がどんなものであったかを知っている者はもはや一人もいない。鈴木氏は戦争中に発狂して廃人となってしまったし、村上はほとんど記憶していないからである。

 とにかく、一方でこういう事態が生じていることを、わたくしは夢にも知らなかった。一切がわかったのは、戦争もおわったのちのことである。

 わたくしの知らないところで、このようないきさつがあってからというもの、滬西の空気は一層よそよそしいものになっていった。

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  1. 2016/06/30(木) 22:15:55|
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