いしずえ

第二巻受難の巻

 橋のたもとには、やはり足止めをくった人々やワンポーツがむらがっていた。彼らもこの奇妙なカップルの日本人を、不思議そうな眼でながめている。

 ここからは電車は引換し運転をしていた。電車にのりかえるため、わたくし達はここでワンポーツを下りた。花野氏も車をとめさせ、

 「奥さん一ドルやっておきなさい」

と、財布をとり出したわたくし達によびかけた。

 一ドルでは安すぎるのではないかと思ったが、ワンポーツはべつに不満そうな色もなく受けとった。花野氏は威厳に圧倒されているためである。

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  1. 2016/08/01(月) 10:43:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「花野さんの威力は大したものね」

 「一介の浪人なのにねえ」

 「まるで高官のお通りみたいだったじゃないの」

 電車に乗ってから、わたくし達は口々に云いあった。

 白ネルのねまきを着たまま、昼ちかくなって歯ブラシをくわえている花野氏の、間ぬけた恰好を見なれているわたくし達は、一代の名優のようにふるまった彼の態度に、すっかり度肝をぬかれていた。

 家庭の彼をみていては、とうていあの威厳にみちたワンポーツ上の彼を想像することはできない。

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  1. 2016/08/02(火) 13:31:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 恐怖の夕暮

 十一月も末日ちかくなると、冷えこみが急にきびしくなり、一晩中足の冷たさを感じながら夜をあかす日がつづいた。

 二十八日の昼過ぎ、わたくしは一人で虹口に出かけ、医師の診察をうけた。

 胎児の位置がいいとはいえないから、腹帯をしっかりしめて、身体を冷やさないようにしなさいと彼は注意した。

 若干の買物をして、銭湯にたちより、医師にいわれたとおり、何度も出たり入ったりして身体をあたためた。

 ところが、電車でガーデンブリッジのたもとまで帰ってきたとき、またもや交通止めにあったのである。

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  1. 2016/08/03(水) 21:54:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 この頃の上海のテロは頻繁であった。時計じかけの爆弾が劇場やホテルの中で爆発したり、ピストル射殺があったり、毒殺があったり、百鬼夜行で政治と治安の不毛を露出していた。

 その度に交通止めだ。いったい、交通どめされてつかまるような、間抜けた犯人が今までに何人ぐらいいたのであろうか。習慣的、義務的に網をはりまわして、無能な警備力をごまかしているとしか思われない。

 それでも、電車から降ろされた人々は舌打ち一つするでもなく、顔をしかめてみせる者もいない。

 「仕方がない……」

といったような表情をして、橋のたもとに立ちすくむ。中には時計をながめてワンポーツをよび、川上の方にむかって走り去る者もいる。

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  1. 2016/08/04(木) 14:55:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 しばらく待っていたが、交通止めはなかなか解除されそうにもなかった。日は暮れかかり気はあせるばかりである。

 そこで、ブロードウェーマンションのかげで客待顔をしてたむろしているワンポーツの群にちかづき、善良そうな顔の男をえらんで手招いた。

 男は尻尾をふって主人にかけよる犬のように、嬉しそうな顔をしてとんできた。大勢のワンポーツの中から、とくべつに指差して手招きされたのが余程うれしかったものであろう。

 わたくしはずっと川上を指差し、さらにその手を川をよこぎって川向こうに移動させながら、

 「西安寺……」

といった。川上の方をまわって西安寺まで行けるか、という意味をあらわしたつもりであった。

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  1. 2016/08/05(金) 13:40:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「ほ、ほ」

 彼は一切呑み込み顔に、にこにこしながら梶棒をおろし、乗るようにとうながした。

 やれやれ助かった……わたしは内心ほっとした。

 五尺そこそこの小柄な男は、やせた身体のどこから力が出るかと思われるほど、軽々と走った。

 川上の橋をわたり、今まで通ったことのない道を何回か右折しながら走りつづけた。方向としては西安寺の方にむいているようであったので、見なれない中国人町をひっぱりまわされても、さして不安は感じなかった。

 しかも、男は自信ありそうに、息もみださずゆっくりと走っている。子供の頃から走りつづけて育ったかのように、らくらくと走っているのである。

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  1. 2016/08/06(土) 21:49:45|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 三十分も走ったと思われる頃、彼はとつぜん立止り、梶棒をおろすとふりかえって、

 「ここでいいだろう……」

というような顔をして何やら短くいった。

 「西安寺……」

 あわてて言葉するどくいいながら、わたくしは前方をゆびさした。

 すると、男はさっと足下をゆびさして、何やら早口にしゃべりたてた。ここが西安寺だといっているらしい。

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  1. 2016/08/07(日) 01:45:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「ちがう……ここは西安時でない……」

 わたくしは手をふって否定した。こんなところで下ろされたら、まるで山奥において行かれたようなものだ。どこへ連れてこられたものかまるっきり見当もつかない。

 わたくしは車から下りて、地面に「西安寺」と書き、さらに丁字路をかいて電車の停留所の印をつけてみせた。

 地の上には宵闇がただよいはじめ、その底に西安寺の文字と原始人の絵文字のような地図が、不安げにしずんでみえた。

 男は地面から眼をあげると、満面の不満の色をみなぎらせながら、口をとがらせて何やらまくしたてた。お前の書いた文字や図は何のことかさっぱりわからんではないかといっているようである。

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  1. 2016/08/08(月) 21:06:52|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼は文字が読めないのだ。わたくしは途方にくれたまま、施す術もなくしばし茫然と立ちすくんだままであった。

 すると、この大人しそうな男が、いきなり居直りはじめたのである。眉をさか立て、口から泡をとばして、いらいらした声でわめき出したのである。それでも尚、反応をしめさない客にたいして今度は憎々しげに右の手のひらをつき出してみせた。

 「金をよこせ」

と、いっているのであった。

 思いがけない彼の豹変に、わたくしは思わずじりじりと後にしりぞいた。

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  1. 2016/08/09(火) 09:06:04|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 背中をじーんと恐怖が走った。スコット―路にいた頃、戸松がいっていた言葉を思い出したのだ。

 「ワンポーツには気をつけろよ。悪いのにつかまると、とんでもないところへ連れて行かれて暴行された上に殺されてしまうぞ。上海というところはそういうところだ」

 中国人町に住むようになってから、中国人にたいする警戒心がうすれてしまっていたようだ。うっかりしていた。しかも、こんな気弱そうな顔をした男が、このように豹変しようとは思いもかけないことであった。なついていた犬に突然かみつかれたように、狼狽と恐怖が全身をしめつけた。足がガタガタふるえ出した。

 やがてのこと、ふるえる手でハンドバックをあけ、五ドル紙幣をつまみ出すと、おずおず男の方に差出した。

 すると、何んということだ。もぎとるや左の掌にのせ、右手でパンパンたたきながら、又もやギャーギャーがなり出したのである。

 五ドルでは足りないというのだ。ワンポーツにのる時、わたくしは西安寺まで五ドルぐらいなものだろうと考えていた。それにハンドバックの中には、買物をした残りが七ドルぐらいしか残っていなかった。

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  1. 2016/08/10(水) 15:28:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 男は「五十ドル五十ドル」と大声でどなっている。金額だけは日本流に云えるのである。

 五十ドルなんて……そんな馬鹿な車代があったものではない。第一やりたくてもそんな金はないのだ。

 「それは駄目だ……」というように、つよく手をふってみせた。

 さあ、そのあとが大変であった。男は手をひろげたり、拳をすったりしながら街頭演説をはじめ出したのである。

 通りがかりの中国人や、家の中にいた中国人達が、ぞろぞろと集まってきて、たちまち五、六十人の人だかりとなってしまった。

 男はますます勢いをえ、口から泡をとばし、わたくしを指差しながら、声をはりあげて面罵しつづけた。

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  1. 2016/08/11(木) 20:35:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 人々は黙ってきいているだけである。誰一人として仲に入って解決つけようとする者もいない。この場合、解決のめどはわたくしが五十ドルを出すか出さないかにかかっていることはわかっていた。

 この群衆にむかって、わたくしは弁明したかった。ブロードウェーマンションからここまで、五十ドルでは高いということ、又わたくしにはそれだけの金がないということ、それにこの男はわたくしの命じた目的地まで来ていないということ……

 噴きあがるような思いを伝えることのできないもどかしさ、くやしさに、胸がぎりぎりとうずいた。

 彼らは男の罵倒をきいて、悪い日本の女だと思っているにちがいない。彼らが自分らの同胞である男といっしょになって、わたくしに攻撃を加えないのは、わたくしが今にも泣き出しそうな青い顔をして、黙っているからであった。

 半時にもおよぶ男の長い罵詈雑言を、わたくしは黙って立ちすくんだままきいていた。

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  1. 2016/08/12(金) 13:28:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 その中に、この女は言葉が通じないのだ。とんでもないところへ連れてこられて困っているのだ……ということが、だんだん群衆にもわかってきたらしい。彼らは「なあーんだ」というような顔をして一人去り二人去り、人垣をはなれていった。

 そのかわり、空車をひいて通りかかったワンポーツが、次々と立ちどまり、卑俗な笑いをうかべながら口々に弥次りだしたのである。町には暮色がたれこめてきた。家々には火がともされた。

 わたくしは観念した。羽織をぬいでこの男にくれてやろう。虹口で買った化粧品や菓子の類もみんなくれてやろう。そうしたならば、わたくしの誠意がわかってくれるにちがいない。車代が解決したら、西安寺と思われる方向にむかって一人であるきつづけてみよう。いよいよ道にまよって夜ふけとなり、万一暴漢におそわれたり、行きつくことができなかった場合には、その時こそ舌をかみきって死んでしまおう。そうだ、死んでやろう。

 追いつめられたねずみのように、わたくしは死の観念のまえにうずくまった。

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  1. 2016/08/13(土) 13:48:40|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 大地をなめてでも生きつづけようとする、あの苦力たちのたくましい生への執念にくらべたら、わたくしの生への意欲は蒸留水のような稀薄なものであった。

 わたくしがハンドバッグと買物籠を男の前におき、羽織をぬいだときであった。

 人垣をかきわけて一人の中国人が、つかつかと近よってきた。長衫のよく似合う中背の青年であった。

 「どうしたんですか」

 なつかしい日本語だ。

 俎板にのせられていた鯉が急に水の中にほうりこまれたように、わたくしは全身の血脈が嬉びに躍動するのを覚えた。あまりの嬉びに胸がわなわなとふるえて、急にはまとまった言葉が出なかった。すると、ワンポーツが二人の前にぐっとつめよってきた。そして又もやはげしい口調でまくしたてはじめた。

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  1. 2016/08/14(日) 14:41:22|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 青年は男の顔にじっと視線をそそいだまま、だまってきいている。浅黒い骨ばった横顔である。彼はふたたびわたくしの方に向くと、

 「どこから乗られたんですか」

ときいた。

 「ブロードウェーマンションからです」

 「この男は二時間もあっちこっち乗りまわしたあげく、お金を一文もくれないのだといっていますが」

 「いいえ、そんな事はありません。西安寺まで行ってくれといったら、ここで下ろされてしまったんです。わたくしは、ここが何処かさっぱり見当もつきません。その上、五ドルやりましたら、どうしても五十ドルくれというのです。それほどのお金がありません」

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  1. 2016/08/15(月) 12:43:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしは泣きじゃくるようにせきこみながらいった。今まで胸の中におしこめられていた言葉が、一ぺんに争い合いもつれあって出てきたようであった。

 青年はわたくしの心の中を思いやるかのように何度もうなずいて、

 「五ドルはもうやったんですね」

と、念をおした。

 「ええ」

とうなずくと、彼は調書のそろった検事のように、威圧的にワンポーツをにらみつけ、きびきびした支那語でしゃべり出した。鋭利な刃物で相手の感情をずたずたに切りさいていくようなするどさがあった。

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  1. 2016/08/16(火) 08:56:33|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 すると、ワンポーツは何と思ったものか、ふいと梶棒をもちあげ、苦々しげに唾をはきすてると、ぶつぶつ言いながら立ち去っていった。

 「さあ、行きましょう」

 群衆のちらばっていく動きの中を、わたくしは青年にうながされてあるき出した。

 「西安寺だといわれましたね。お住いが西安寺なんですか」

 「いいえ、開納路です。でも西安寺まで出ればあとはわかります」

 「ひどい眼に合いましたね」

 「ええ、助かりました。ひょっとしたら今日は死ななきゃならないかと思いました」

 「どうしてですか」

 青年は笑った。

   (43 43' 23)

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  1. 2016/08/17(水) 09:59:33|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「言葉もわからない。西も東もわからない。独りぼっちで夜の上海にほうり出されたら、死を覚悟するより方法がありません」

 「上海のこわいことはわかっているんですね。ああいう冒険はしない方がいいですよ。ここは虹口とはちがいますからね。殺されても誰にもわからないですよ」

 「はあ、もう身にこたえすぎる程わかりました」

 明るい電車道に出た。しかし、何時も通りなれている道とは違っているようであった。明るさはわたくしの心を落着かせ、安らぎをあたえた。

 向うから、電車の走ってくるのが見えた。

 「あの電車にのっていきますと西安寺に出ます」

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  1. 2016/08/18(木) 10:54:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 青年は電車の停留所とおぼしきあたりへ向ってあるきながらいった。わたくしはふと大切なことをわすれていたのに気がついた。

 「あなたは大変日本語がお上手でいらっしゃいますが……」

 青年はいきなり爆発的に笑うと、

 「ぼくは日本人ですよ。丁度あそこを通りかかって何気なく人垣をのぞいてみたら、日本の女の人が立往生しているのでびっくりしましたよ」

 「ああ、そうですか。日本人ですか。そうだったんですか」

 日本人ときくと、とたんに心の垣根がとりはらわれたような親しみを感じた。

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  1. 2016/08/19(金) 07:08:46|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 電車がとまった。

 「やっぱり送ってあげましょう。気がかりですからね」

 青年はわたくしの後から自分ものった。

 十分ほどして西安寺の停留所についた。青年は二枚分の切符代をはらって先に立っておりた。

 「切符のお代、すみません」

 金を渡そうとすると、

 「いや、いいです、このくらい。開納賂は向こうですね」

 家まで送るつもりらしい。

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  1. 2016/08/21(日) 10:32:04|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「もうここで十分です。後は勝手がわかっていますから……。それにこの通りは人通りが多いですし……」

 「そうですか。じゃあ気をつけて行ってください」

 青年は笑顔でうなずくと、そのまま立ち去ろうとした。

 「あ、ちょっと待って下さい」

 わたくしは、あわてて呼びとめた。

 「お名前と御住所を……主人にも報告しなければなりませんから」

 彼ははにかんだように後すざりして、

 「こんな事、日本人同志あたりまえの事ですよ。ぼくは鐘紡の社員です」

といい残すや、チンチンと発車を合図している電車に走りより、ぱっと飛び乗ってしまった。

 電車はのろのろと走り去っていく。見えざる糸にむすばれ合った人間社会のえにしの網が、一箇所ぷっつりと切れる音を感じた。

 日本人、日本人、名前も告げずに立ち去った日本人……同胞というものはいいものだ。

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  1. 2016/08/22(月) 13:00:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 路上の死体

 朝買物にでることはめったになかった。その朝は掃除がすむと、すぐに堀下夫人とつれだって市場にむかった。

 朝食のあとで、牧谷や本田が食べたがっている朝鮮漬というものを、漬けこんでみようではないかと相談がまとまったからである。

 材料は白菜、にんにく、とうがらし等々ときいただけで、わたくしには縁遠いものに思われたが米食につきものの漬物であれば、要求を無視することはできなかった。食べ物のうらみはこわいからである。

 路地には人通りはなかった。二人はにぎやかにしゃべり合いながら大通りに出て左に折れた。

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  1. 2016/08/23(火) 09:42:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 そのとたん、わたくしは弾力性のあるものにつまづいた。はっとして見下ろした瞬間、全身の血がさっとすいつけられるように胸の一点に疑結し、バランスをうしなった肉体は、どっと前方にほうり出された。

 わたくしがつまづくと同時に「キャッ」といってとびのいた堀下夫人は、あわててわたくしのそばにかけより、

 「大丈夫……」

といって援けおこした。

 わたくしはおそるおそる振り返ってみた。八つか九つぐらいと思われる子供の死体であった。中国服をひきちぎったようなボロ布が、ふわりとかけてあったが、腹から下は裸のまままる出しになっていた。

 風にふかれてかけ布が一方によってしまったのか、それともわたくしがつまづいた時に、踏みつけて布をひきよせてしまったのか、ボロ布は上半身の方に片よってしまっていた。

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  1. 2016/08/24(水) 14:23:29|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「かわいそうに、子供だわね」

 わたくしが投げ出した籠や財布をひろいあつめてわたしながら、堀下夫人は眉をひそめてつぶやいた。

 「あの布、わたくしがつまづいた時にまくれてしまったのね、きっと。あんなに剥出しになっていてはかわいそうだわ。あのままでは残酷だわ。かけなおしてやらなきゃいけないわね」

 ひとり言のようにつぶやきながらも、立ちすくんだままわたくしの手足は動かなかった。心の中に、良心とはべつに、行動をこばむつよい力があった。

 布をかけなおしてやりたい……という思いと、見知らぬ死体に手をふれたくない……という思いと、まったく矛盾した二つの心が、わたくしの中に並行して隆起していた。

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  1. 2016/08/25(木) 09:14:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 この心の中の対立は、行動をしぶらせた。わたくしはためらいながら、そこに立ちすくんだままであった。

 「筵でもかけておけばいいのに……こんなままで捨てておく親も親だわ。さあ、行きましょうよ。気にすることないわよ。こんなところに捨てておく者が悪いのよ」

 堀下夫人は、わたくしが死体につまずいたことを気にして立ちすくんでいると思ったらしい。わたくしの肩をこづくようにしてうながすと、さっさと歩き出した。

 「そうね、気にすることはないわね」

 わたくしは自分の良心にいいきかせるようにいうと、あわてて彼女の後を追った。良心は見事に無視されたのである。

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  1. 2016/08/26(金) 14:31:40|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 ところが意外なことに、そこから遠のくにしたがって、おさえつけられてしまった筈の良心が、心の深部で嘆きはじめ、うずきはじめたのである。

 そして、それは、やがて自分自身に嫌悪と悲哀を感じさせ、死体のなまなましい印象はいよいよ深く心のそこにきざみつけられていった。

 市場では白菜の大株を五つと、香辛料や調味料を買った。道の両側に、ずらりと並んだ野菜売りの間を、品物とねだんを見合いながらきょろきょろと品定めしてまわったためか、かれこれ小一時間もついやしてしまった。その間中も、悔恨に似た感情が、胸の底でずっとうずきつづけていた。

 市場通りをはずれて、左にまがった帰り途には揚まんじゅうや南京豆屋等の屋台店が、そろそろ店を出しはじめていた。

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  1. 2016/08/27(土) 13:25:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 このあたりは、いつも二、三体の死体がすてられているところであるが、この日も道のすみの方に、ボロ筵をかぶせて一体だけ遠慮がちによせられていた。わたくし達が、市場をうろついている間に捨てたものであろう。

 それを見たとたん、五、六分後に、再び直面するはずのさっきの子供の死体を鮮明に思い描いた。おそらく、まだあそこにあのまま置いてあるにちがいない。

 自分がふみつけ、自分が剥き出しにしてしまったも同然の裸死体である。今度こそ、家から古着を一枚もってきてでも、すっぽりとかくしてやらねばならない。自分自身を悔恨から解放するためにも、是非そうしなければならない……と、わたくしは考えた。

 その地点が見えはじめると、わたくしの眼は遠くから路上を這いまわるようにさぐりまわしていた。ところが……

 無い、見えないのだ、それらしいものが……近づくにしたがって、あきらかに遺棄死体を集める車に持ち去られてしまった後であることがはっきりとしてきた。

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  1. 2016/08/28(日) 08:04:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「あら、もうひろって行ったのね。市場の近くにあった死体は、車が行った後ですてられたのかしら……」

 堀下夫人も気になっていたと見えて、その地点を見つめながらいった。

 「ないわね。持って行ったのね」

 わたくしも同じような言葉を繰返しながら、後悔のかたまりのような吐息をもらした。

 いよいよその地点に着いたとき、わたくし達はどちらからとも無く足を止めてそこに立ち止った。黒いボロ布をかぶせられた子供の上半身と、道の中央に向って投げ出された枯枝のように骨ばった二本の足の印象が、路上にぴったりはりついたように鮮やかによみがえってきた。そこから右に折れている路地から出てきて、角を曲ったとたん死体につまづき、それを跨ぐようにして反対側にころんだ、あの時の無格好な自分の姿を思い描いてみた。

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  1. 2016/08/29(月) 09:48:44|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 すると、ぞっとするような思いが背筋を這いのぼってきた。怖しいとか、不気味であるとかというよりも、何か犯すべからざるものを犯したという、取り返しのつかない切実な罪悪感のようなものであった。

 「ここにすててあったのは始めてだわね。すてる場所をはっきり決めておけばいいんだわ。そして町の角々に死体はどこそこにすてて下さいって、ちゃんと立札でも立てておけばいいのよ」

 堀下夫人が、市政の怠慢をなじるかのように憤然としていった。

 「まったくだわね、目茶苦茶だわ、無政府社会だわ」

 わたくしもすかさず同調した。胸につまった罪悪感を、何者かになげつけてやりたい衝動があった。さらに自分の言葉に刺激されたかのように、わたくしは政治の背後にある支那民衆の人間性にたいして怒りを感じた。

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  1. 2016/08/30(火) 09:53:39|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「無慙だわ、ね、むごいと思わない?……うすいボロ布一枚かけただけで、こんな町角にほうり出しておくなんて……飼い犬が死んだって土に眠るまで見とどけるじゃないの。戦場ならば仕方もないけど、こんな平和な町角で、人間の子の最後が、こんな事でいいものかしら……人が死んだら野辺送りぐらい、みんなでしてやったらいいじゃないの。何の為の肉親なの、何のための社会なのよ」

 子供の死体にかわって、無情な世の中に抗議することによって、幾分か心が軽くなったような気がした。子供の霊魂がまだそこいらにひそんでいて、じっと聴いていてくれるように思われた。


  流 産

 その日一日、わたくしは死体のことを思出しては口に出し、悔いを繰返していた。

   (43 43' 23)

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  1. 2016/08/31(水) 10:01:28|
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