いしずえ

第二巻受難の巻

 床の間には大国主命と事代主命の双幅がかけられ、一斗米でつくった大きな鏡餅がかざられる。父は出雲大社の信仰者であったが、出雲神話の中の主役であるこの父子の神は父の経済生活の護り神でもあったわけだ。

 大国主命は小作人によって耕されている祖先伝来の田圓に豊作をもたらしてくれる神であり、事代主神は祖父の父から手に入れた漁船による大漁を約束してくれる神である。父は秋には供を連れて何日もかかって持田の作柄を見廻ってあるいたが、船には一度も乗ったことがなかった。腹心ともいうべき忠実な漁師頭が三人いて、彼らに一切まかせっきりであったようだ。

 半農半漁の村で父は完全に農民と漁民をおさえていた。搾取的存在であったにもかかわらず、誰も父を非難する者はなかった。それどころか、米をおさめに来た小作人は、台所で昼飯を馳走されながら、そこらでうろちょろしているわたくしの手を取り、引きよせていったものだ。

 「あんたさんもお父さんに似て、立派な人になりなされよ」

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  1. 2017/02/01(水) 08:48:18|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 又、網を修繕している漁師の老人は、一針一針すくいあげながら、つぶやくようにいったものだ。

 「お父さんは十一の時には、学校で先生の代りをしておんなさったけな。十四の時だったかいなあ、東京の学校で勉強したくても、どうしてもおじいさんがお許しならんもんだから、書物を背負って家出なさってな、そりゃもう大騒ぎしたことがありましたけ……お父さんのようなお人は、この近村にはおらんけな」

 とにかく、父を崇拝していたのだ。搾取の親玉として憎む気持など塵ほども持っていなかったのだ。

 わたくしは幼い頃、それを当然のことだと思っていた。彼らは貧農であり貧漁なのだ。父にたよって生きているのだから、父を讃美するのはあたりまえだと思っていた。

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  1. 2017/02/02(木) 13:33:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 しかし、わたくしが十一の時父が死亡し、それから十年たち十五年たち、家が没落の淵に沈んでしまった後までも、墓参りにかえったわたくし達に訴える彼らの言葉はかわらなかった。

 「お父さんは頭のええ偉いお人でしたけな。誰か一人でもお父さんに似た人がいなさるといいのだが……お盆やお彼岸には、お父さんのお墓にはいつも線香が火の山のように供えてありますけな。誰がさしたかわからん線香がな……」

 父の死後遠く隔たるにしたがって、細かい思出や印象は一つ一つぼやけてしまって、一切が一つの焦点にぎゅっとしぼられていくのを感じた。宗教的行事にたいし厳格にして慎重であった父の姿にである。

 やがて成人するに及んで、父の人間的魅力、人を掌握していく力が、この焦点に根ざしていたことに気づいたとき、それは権威をもってわたくしの行く手を照らしているようにも思われた。

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  1. 2017/02/03(金) 16:16:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 父の年始の宗教的行事は、家の中の神にたいする奉仕だけには止まらなかった。それが終ると屋外の神詣りである。御神酒と雑煮をもって海岸ぞいの倉庫や小屋に祭られている神々を拝んでまわるのである。お供には大学の休暇で帰ってきた兄達が、これも紋付に身をかためてついていく。父は酒徳利をもち、兄達は雑煮の入った木皿や提灯をもって行く。この酒徳利というのが、平手造酒が千鳥足でぶらぶらさげて歩いたような時代物であった。

 わたくしが父のお供をしたのは、後にも先にも小学五年生の正月一回きりであった。その年には、次兄は二十一連隊に一年志願兵として入隊しており、東京に遊学していた長兄と三兄は、大阪の親類の家にひっかかったまま帰って来なかった。

 わたくしは提灯を持って父の先に立って歩いた。父はどの船小屋でも船の舳に丹念に酒をそそぎ、木皿の雑煮を供えて慎重に柏手をうった。

 「お父さん、この神様もやっぱし恵比寿さまだかな」

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  1. 2017/02/04(土) 09:20:24|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 父が頭をあげたとき、わたくしはきいた。

 「いんや、龍神様だ、海の神さまだ」

 恵比寿さまが大漁の神、竜神さまが海の魚を支配する神……漠々とした海にも、いろんな神様が、右往左往しているんだな……わたくしは子供心に不可解なものを感じた。

 父は大黒様は大国主命、恵比寿さまは事代主命と信じ切っていたらしい。もちろんわたくしも子供の頃は固くそれを信じていた。恵比寿も大黒も共に七福神の一人で、大国主命や出雲大社と何ら関係ないことを知って啞然としたのはずっと後のことであった。考えてみれば父ほどの人が、何という混乱した信仰に魂を燃焼させていたものであろうか。

 砂丘のちかくにある遠い船小屋に行く時はつらかった。暖流を渡ってくるにもかかわらず、シベリアから吹き渡って来る風は冷たかった。提灯の火が消えないように、マントの端で上を覆いながら、前こごみになって進んだ。風とともに荒砂がぱっと顔に吹きつけ、気をつけていないと眼や口の中にまで吹きこんでくる。父はインバネスも着ていなかった。むき出しの手に徳利と雑煮の気皿を抱えている。凍えるように冷たかったにちがいない。

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  1. 2017/02/05(日) 13:30:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 砂丘の下は田尻の浜といった。山奥から流れ出した川が、途中の田や畑をうるおしながら、この田尻の浜を縦断して海に流れこんでいた。川水は浜の砂の上を流れる時、半分は砂中に吸いこまれてしまうのであろうか。急に水量が減り、ところどころに砂の盛り上りを残して、三筋にも四筋にもわかれてちょろちょろと流れていた。

 この川にはもちろん橋のような気のきいたものはなかった。わたくしは着物の裾をからげて、ひょいひょいと砂の盛り上りを飛びあるいて川を渡った。

 一通り船小屋の神詣りがおわると、再び家の下の浜までひきかえした。父はわたくしに徳利を渡すと、波打際に打ち寄せているほんだわらを拾いあげ、引いていく波を追いかけるようにして海藻をぬらし元に駆けのぼってくる。全手にそれをうやうやしく捧げると、さっと左右に水滴をとばしながら打ち振るのである。「祓いたまえ、清めたまえ」海から吹きつける風にのって荘重な声が流れてくる。それから柏手だ。入江の両端の岬の丁度中央と思われるあたりの水平線が、ほんのり赤く色づいている。太陽はまだ水平線の遙か彼方にいるらしい。

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  1. 2017/02/06(月) 09:53:50|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしはこの時、意外な感じがした。というのは、数々の神々を敬虔な態度で拝みつづけてきた父が、偶像的対象もない海に向って拝むとき、もっとも時間をかけ、もっとも思いをこめて真剣に祈りつづけていたからである。

 太陽の光のない海は、黒い潮が無数の巨大な蛇のようにのたうちまわり、岸に近づくにしたがって、そのうねりは大きな魔物がいっぱいに口をあけて、白い歯並を剝ぎ立てて襲いかかってくるかのように迫って来る。やがてその巨大な歯並は、仲間の背中に食い付いてでもいくように、前のめりになって潮の背に食いこんでいく。

 冬の海は荒々しく、恐怖をさそいたたせずにはいない。わたくしは寒さと怖ろしさに、ガタガタふるえていた。わたくしはなるべく動きの少ない沖の方を見ることにした。

 左の岬のずっと前方の沖合に、富士山を浮べたような島がある。岩の頂から岩裾にかけて、なだらかな傾斜がひろびろと拡がり、神々しい陰影をとどめている。岸からおよそ一里のところにある。この島は神島と名付られ、昔々の大昔、須佐之男命が朝鮮からの帰途、船でこの島にたどりつき、岬の向こう側の入江に船をつけられたという伝説が伝えられている。

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  1. 2017/02/07(火) 14:13:28|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 この地に降り立った須佐之男命は、御子の五十猛命にここに止まってこの地を治めよと命じ、大屋姫命には隣の村をおさめるように命じ、自らは更に出雲の方向に向って進まれることになったのだという。須佐之男命を送って子供達は、海岸ぞいに進まれたのであるが、何処まで行っても袂別の情は尽きそうにもない。そこである坂の上で、きっぱり別れることになった。これが隣村との境になっている神別れ坂である。

 そのご五十猛命は出雲の神々と交流しつつ、よく農業をひらき、よく海をつかさどって土民をたすけた。そこでこの村の氏神として、岬の上に五十猛神社としてまつることになったのである。

 出雲神話と伝説的土着神話は、やっと言葉を覚えはじめた三つ子の頃から、大人達からかわるがわるきかされたものであった。何時しかわたくしは、自分が須佐之男命の子孫であると信じるようになっていた。

 長い祈念が終ると、父は今度は波の間に間にはるか沖合に薄雲の漂うように霞んでみえる遠い岬にむかって礼拝した。

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  1. 2017/02/08(水) 09:01:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「お父さん、神棚もないのに、なんであんなに長いこと拝んでおんなはったかな」

 近よって来る父に徳利を差出しながら、わたくしは聴いてみた。子供心は神が社か神棚の中にのみ鎮まりますものと信じていた。

 「日の出る方向だけな、天照大神を拝んだのだ。右の方に霞んで見えるのは、杵築の岬で出雲大社のあるところだ」

 父は子供の不思議そうな問いに、長い前歯を出して笑った。年少の子供にたいしては多くを語らず、只にこにこ笑って見せる人であった。

 家に帰ると、今度は母も加わって仏式行事である。仏壇で阿弥陀経をあげ、二階の床の間にかざられた先祖の肖像に正月料理をささげてあるくのである。家紋入りの朱塗の高膳や椀類は、この肖像のためにのみ造られたものだ。

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  1. 2017/02/09(木) 09:59:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 家族がやっと祝膳に着く頃には、戸外は白々と明けわたり、お腹もぺこぺこにすききっている。

 二日目の行事、三日目の行事、神と仏と先祖を中心とした仰々しい生活がつづく。毎日毎日数多くの神々や仏や先祖のお下りの雑煮を次々と食わされるのにはうんざりする。何時もならば大食の兄達の役割なのだが、この年にはそろいもそろって三人ともいないのである。とうとうやわらかい雑煮餅は食べずじまいであった。

 この年の夏、父は長兄の恋愛に反対しながら病死した。息子が東京の下宿先でねんごろになった女と結婚したいといい出したことにどうしても賛成出来なかったのだ。信頼する仲人の推薦による氏素性のしっかりした娘でなかったら、長男の嫁として受け入れる気になれなかったのである。息子は愛こそ真実だとして愛を貫こうとし人生の体験者である老人は、青春の愛が幻のごとくはかないものであることを知っていたから、祖先と子孫、一家一族をむすぶことに長男の結婚の意義を求めようとした。

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  1. 2017/02/10(金) 08:47:26|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 不作や不漁が何年もつづいた時には、百姓や漁師達の生活の面倒を見るだけで精一杯であったから、三人の息子を東京の大学で学ばせるためには、祖先伝来の田圓を手放さねばならないこともあった。息子達の遊学には、父としては偲びがたいぎせいが払われていたのである。息子が父の意志を裏切った結婚を強行するとすれば、父自身も又、祖先を裏切ったことになるのであった。

 父は右手を懐にさし入れて心臓を抑えながら溜息をついた。朝に夕に溜息をついた。家族と話し合うことも殆どなくなった。七月二十日の夏祭りの日、思いあまった父は、浜田二十一聨隊に次兄をたずね、長男の恋愛を何んとして諦めさせることが出来るかを相談した。その帰途、底をぬくような夕立に合い、びしょぬれになって帰った父は、翌日から病床をはなれることが出来なくなってしまった。はじめは皆が一寸した夏風邪だと思っていた。ところが、八月に入ると病状が急変し、危篤状態となり、ついに永眠したのであった。享年六十一歳であった。

 はじめて父の信仰を認識した年に、はじめて父の苦悩を見、そしてはじめにして最後の父の死を見たのである。この年はわたくしの胸に生涯を通じて父の映像をきざみこみ、おぼろげながらもわたくし自身の人生の理想を決定したような一年であった。

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  1. 2017/02/12(日) 11:48:39|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしが絶えず信仰を求めずにいられなくなったのは十六、七の頃からであった。

 何という運命の皮肉か、兄達は三人が三人とも父の嫌っていた東京の女を妻とした。彼女らの中には、田舎の家風を継いでいこうという謙虚な女はいなかった。むしろ、実家の流儀を持ちこんで兄達を精神的婿養子のごとくにしてしまったのである。

 この頃からの母の苦悩が増大した。嫁を教育しようとして、郷里の家を鎖して東京にくりこんできた母は、毎日のように嵐のような不満と憤怒をぶちまけていた。まず最初に小さな仏壇をそなえつけ、三部経をそろえて仏教的行事を確立させた。しかし、嫁達は一朝一夕には母の意志どおりにはならなかった。腹いっぱいの小言をばらまいては仏壇にむかって「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と涙をたたえてとなえている母の姿は奇怪な感をあたえた。

 わたくしは仏教がきらいになった。といって、水平線にむかって祈りをささげていた父の信仰も、あまりにも漠然としていて手懸りがなかった。

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  1. 2017/02/13(月) 16:20:23|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 カトリック教会の前のフランスパン屋に買物に行ったとき、わたくしはついふらふらと協会の門をくぐった。十七の春のある日曜日であった。白髪の神父は黒い聖衣の胸に十字を切って祝福してくれた。しかし、二十歳の時にはもうここを去っていた。それからはプロテスタントの各派を転々と遍歴した。

 最後に世田谷区下北沢の教会で、賀川豊彦先生の指導をうけた。昭和十年の当時、先生はすでに第二次世界大戦を予感し、今に物資が窮迫し、食糧不足に苦しむようになるだろうから、余裕があったら缶詰や壜詰等を買い溜め、地下に貯蔵しておくようにとすすめた。若々しい熱情あふれた指導ぶりは、多くの若者の心をしっかりと把握し、協会は何時も人いきれでむんむんする程信徒で満ちあふれていた。だがどういうものか、ジェスチャーの大きいその講話は多分に芝居じみた感をあたえ、壇上に膝まづいて天を仰ぎ「天なる我等の父よ……」とよびかける祈りのポーズは、青年のようにひたむきで真剣であるにもかかわらず、何んとなくくすぐったいような空々しさを感じさせた。

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  1. 2017/02/15(水) 10:13:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 イエスの十字架の死によって人類がすくわれたという発想は、観念としてはわかるのであるが、二千年前のユダヤ人であるイエスが、果して東洋の孤島のわれわれまでも救ってやろうと考えていたのであろうかという疑問は、どうすることも出来なかった。賀川先生が熱心にイエスによる救いを叫べば叫ぶ程、日本人がなぜユダヤの神とユダヤの偉人に、根本的に支配されねばならないのかという懐疑は深まるばかりであった。今まで接してきた無名の神父からは感じられなかった不思議な反応であった。わたくしの心は、キリスト教から遠のいていった。しかも奇妙なことには、聖書から得たキリストの聖なる印象だけが、深い感動とともに心ふかく刻みこまれたのであった。つまり、キリスト自身にはつよい崇敬と魅力を感じながら、キリスト教にはついに入信しえなかったのである。幼い頃にうけた宗教教育が外来性のものをうけつけなかったのかも知れない。

 信仰を求めて遍歴の旅路をさまよっている頃、丁度青春の血も一人の青年にたいする慕情にわきたちはじめていた。しかし、わたくしは恋はすまいと深く心に誓った。兄の恋愛結婚で苦悩していた父母のことを考えると、自分自身の力で簡単に結婚の相手を決める気にはなれなかった。時は人間の苦悩や失敗を解決してくれる良薬である。わたくしはじっと時の流れをみつめながら、自分の心が冷静にかえるのを待った。

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  1. 2017/02/16(木) 09:26:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 何年かの後、わたくしは安部磯雄先生にめぐりあった。先生はクリスチャンであったが、賀川先生よりずっと品格高く、宗教的俗臭がなかった。日本の神を信仰した父のように、さらりとした爽やかさがあった。わたくしは先生の枯淡な人格に、人間完成の理想を感じた。

 わたくしは先生が称賛する青年と婚約した。先生の評言は、キリストの現代像を感じさせた。係累も学歴も風貌もたしかめなかった。先生の彼にたいする信頼に比べたら、そういう世俗的な条件はまったく無意味なことに思われた。何のためらいもなくわたくしは結婚した。父が生きていたならば、安部先生ほどの人格者に保証された人物に、おそらく満足するだろうと思った。

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  1. 2017/02/17(金) 08:54:18|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

  年 頭

 ところでどうだろう。青年は安部先生自身でもなければ、キリストの再現でもなかった。朝から晩まで、民族の将来、アジアの経綸などと、総理大臣のいうようなことを叫びながら年中はりきっている活力にあふれた青々しい男であった。彼は自分が結婚したことを忘れてしまったかのように同志とともに飛び歩き、ついには内地にとんだまま手紙もろくにくれなかった。

 中国人町の真只中に監禁されたような留守宅生活四ヵ月の後、結婚第一年目の正月は、まるで檻に入れられた動物のように、希望も感動も奮起もよろこびもないものだったのである。

 元旦の新鮮さも、宗教的雰囲気もまるっきり感じられない。リベラリストの長兄の家庭よりも、ずっと悪い状態であった。わたくしは失望した。

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  1. 2017/02/18(土) 11:12:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷や青年達は大晦日にどこかで飲んできたものか、元旦の朝は特別に朝寝坊をした。

 「金のない者は寝正月に限るよ……」

 彼らはいいわけしながら、ぼそぼそと飯をかきこんだ。奇合世帯の乱雑さが家中にみちていた。誰も晴着を身に着ける者はいなかった。わたくし自身ですら、正月をさかいに衣替えしたに過ぎなかった。晴着を着る気分には到底なれなかったのだ。かくして一年の出発の最初の日は、去年の疲れがよどんだまま俗臭紛々として過ぎていった。

 昼過ぎになって王震亜氏が年始にやってきた。王はアジア同盟の中国側の幹部である。彼は一対の鶏の丸焼を人参や椎茸や白菜で美しく飾りたてて年賀の印として持ってきた。いかにも中国らしい新年の風情であった。彼にすすめられて、わたくし達は彼の家の正月料理を御馳走になることになった。わたくし達といっても夫人達だけである。

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  1. 2017/02/19(日) 09:29:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 日本では正月は新暦に統一されているのであるが、中国では新暦でする者、旧暦でする者、各人各様であるらしい。

 呉亜男夫人は、クリスマスイヴの会食の席で、一月二十四日のお正月には今日よりもっと御馳走するから是非来てくれといった。「わたしは日本に留学している時、親切な下宿の小母さんに家族同様にあつかわれ、日本のお正月を楽しく体験した。あなたも、中国のお正月をぜひよく見てほしい」と、彼女は念をおした。

 王の家はいやにひょろ高い家であった。狭い土地をギリギリに活用しているのであろうか、通りには同じような構えの家がぎっしりと、つまったように並んでいた。都会の庶民街というものは、どこの国も同じものであるらしい。

 入口のドアーを開けると、もう直ぐそこが部屋になっていて、真中に大きな四角なテーブルがおいてあり、応接間兼居間になっているらしく、王夫人が一人ぽつねんと腰かけていた。おっとりと慎ましやかな中世的な女である。兵舎の一室のように、素朴な感じの部屋には、正月らしい装いは何一つほどこされていなかった。

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  1. 2017/02/20(月) 10:23:26|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 呉夫人は、正月には祖先の名前を書きつらねた巻物に赤い紙をはり、御馳走を捧げてお祀りするのだといっていた。しかも今日は商店の軒先にも赤い短冊型の紙がちらちらしているのが目立っている。赤い紙が民族の慶祝を表象しているのに違いなかった。パール・バックの「大地」にも、王竜の妻玉蘭が子供が生まれた時、村はずれの祠にお詣りし、たしか赤い紙を地福の額にはりつけたと書いてあった。

 しかし、王震亜の家には、こうした伝統的祝事の気配は微塵も感じられなかった。彼はしきりに二階の部屋を見てくれといった。岩壁でもよじのぼるような急傾斜の狭い階段をやっとの思いで登ると、そこには夫婦の寝室が並んであった。

 この家では夫婦の寝室が一番明るく豪華な部屋である。部屋の一方の壁に、大きくひきのばした二人の結婚記念の写真がかけてある。王は胸にぴったりよりそった新妻の手をやさしく握って微笑んでいた。大きな三面鏡やしゃれた机なども立派であったが、まず一番目立つのは、何んといっても幅の広いダブルベッドであった。美しい曲線を持った四本の脚が、ぴかぴかと飴色に光っていた。上には白地に美しい花模様が一面に刺繍された華麗なカバーがかけてあった。

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  1. 2017/02/21(火) 09:50:24|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 王夫人はカバーをめくって、中から枕をひっぱり出した。枕のカバーにも美しい刺繍がほどこしてあった。これは彼女が嫁に来る時、丹念に何枚も刺繍して持ってきたのだそうだ。何かの本で、娘が嫁入りする時、夫となる男と自分の枕カバーに美しく刺繍して持っていくと書いてあったような気がする。あれは中国の話だったのであろうか。

 上海に来て間もない頃、松下夫妻といっしょに端午の節句に招待を受けた陳某の家も、やっぱり夫妻の寝室だけが目立って立派であった。やはりこんなひょろ高い家で、階下は田舎の駅のプラットホームの待合室のような食堂と台所にわかれ、同じように急傾斜の階段をよじのぼって二階に上るようになっていた。

 赤いドレスを着て爪を真赤にそめた妻君が、ホステスよろしく賑やかにしゃべりまくり、主の陳はエプロンをかけて台所に入り、次から次と御自慢の広東料理をつくっては運び出していた。二人とも遊ぶことが好きで、競馬、ダンス、キャバレーと、子供をおいて夫婦で出かけるのだと、猫のような顔をした妻君は、真赤な口を大仰に動かしながらしゃべりまくったものである。

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  1. 2017/02/22(水) 10:55:01|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 王も陳も上海ではともに中流階級に属し、ともに近代教育をうけた三十代の男である。彼らの生活様式はまったく類型的なものであるといわざるを得ない。その家々に伝わっている伝統的な型とか個性とかいうものが、全然認められないのである。

 彼らはやたらに夫婦の寝室を誇りたがる。これは中国の古くからの風習であろうか。いや、そうではあるまい。おそらく、近代西洋の影響であろう。いずれにしても、夫婦中心主義がはっきり感じられるところを見ると、東洋の伝統的家の風格はすっかり失せているものとみるべきであろう。

 同じように近代教育をうけ、本格的に日本、パリー、ローマで十数年勉学し、骨の髄まで西欧化しているものとばかり思われていた呉夫人が、基本的生活面では中国の伝統を大切にし、家風を受けついでいることに比べると、不思議なほど奇妙な対比であった。

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  1. 2017/02/23(木) 17:39:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 清国時代に生を受け、伝統的儒教の精神によって幼少時代をきたえられた呉夫人の心底には、今尚、中国の伝統精神が息吹いているのかもしれない。

 わたくしの両親が、息子達に最高の近代教育を受けさせることによって、自己中心の自由主義者を育てあげ、やがて、父の死によって先祖からの伝統的家風を断絶してしまったように、中国の伝統精神も又、呉夫人の年代をもって断絶してしまうことであろう。それは日本自体にも、広くは東洋全体にも、遠からず起こる現象であるというべきかもしれない。


  中国人の心

 どこかで爆竹のはじけるような音がした。景気のいいその音が、爆竹であると気づいたのは、元日もたそがれた頃であった。

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  1. 2017/02/24(金) 00:24:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 王震亜の家でジンギスカン鍋をつついていると間近かでパチッ、パチッーと火薬が破裂するような音がした。相呼応するかのように、もっと近くでもパチッー、パチッーとはじまった。

 「なんでしょう?」

 わたくしは箸を手にしたまま中腰になった。近くでテロがおきたのかと思った。

 「あれは爆竹よ……中国人はお祝いの時にはあれをパチパチやるのよ」

 牧谷夫人は鍋の肉や野菜をとりあげるために、立上りながらいった。

 彼女は肥ってはいるが小柄な女である。大きなテーブルの真中におかれた深目の鍋の中身が見えないのであった。彼女はいちいち立上っては二人の子供達の皿に取り分けてやり、そして自分の皿にも取った。

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  1. 2017/02/25(土) 09:29:38|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 子供達はあつい鍋物よりは、皿盛りの料理の方に魅力を感じていた。家鴨の卵の燻製も食べてみたかった。まるい小さな茸の葛煮もほしかった。焼豚やえびの空揚にも眼移りしてならなかった。あれ、これと、かんだんなく指さす子供のさしずに従って、彼女はいそがしかった。お客にきたことを忘れたかのように、彼女の眼と手はテーブルの上を忙しそうに動きまわった。

 堀下夫人もこのジンギスカン鍋がよほど気にいったようであった。彼女はほかの料理には眼もくれず、この鍋料理にとりくんでいた。白糸のように繊維な感じの春雨を、王が長い箸で鍋に入れる片っ端からひきあげてはすすりこんだ。まるで美食に飢えきったような食べ方だった。

 しかし、それも無理からぬことである。中国にありながら正式な中国料理を食べたのは、六月の初、富豪の潘三省の豪華な饗宴いらい始めてのことだったからである。わたくしは呉夫人に招かれて北京料理を御馳走になったり、陳夫妻御自慢の広東料理を味わったりする機会が度々あったが、彼女達の食生活は開納路の家にとじこめられたままであった。

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  1. 2017/02/26(日) 07:45:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 今日はめずらしく招待をうけたのである。しかも、主が王である。王のわたくし達にたいする穏やかな謙虚さは、彼女達の心を尊大にし、部下にたいするような気楽さをいだかせていた。その上に王は中国人である。この家では何の気がねもいらなかったのである。

 牧谷夫人が何度目かに立上って、肉や豆腐を皿にとりこんでいる時であった。わたくしは箸をやすめて、彼女が腰をおちつけるを待っていた。いっせいに鍋に箸をつっこむのは、いかにも殺伐な感じがするからである。

 何気なしに前方に眼を放ったわたくしは、瞬間はっと心の衝撃を感じた。謎のような陰影をひそめた黒眼鏡の男が、じっとこちらを見すえていたのだ。二つの黒いレンズは、何も彼もすっかり見ぬき、何も彼を知りつくしているかのように不気味さと冷厳さをたたえていた。

 いつからそこにいたのであろうか……窓ぎわの椅子に、黒襦子の長衫をきて、黒い椀のような頭巾をつけた老人が、たんぜんと腰をかけていたのである。

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  1. 2017/02/27(月) 13:40:03|
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第二巻受難の巻

 王の父親か……それとも親類の者か……、おそらく、わたくし達がジンギスカン鍋をめずらしがったり、嬉んだりして、笑いをまきちらしながら鍋をつついている時、静かにドアーをあけてそっと入ってきたものであろう。彼はおそらく、ずっと同じ姿勢のままで、じっとわたくし達を見つづけていたにちがいない。

 わたくしの右手は、箸を握ったままテーブルの上に氷ついたようになってしまった。自分をふくめた夫人達の気をゆるした無作法な態度が、急に恥しいものに思われてきた。人に見られたくない醜態を、うっかり見られた時の、あの内心の狼狽と羞恥が、全身の神経を硬直させてしまったのであった。

 王はさっきから幾分演技がかった口調で、妻がいかにこの鍋料理の材料を吟味したかを、上海語と日本語をはぎあわせて大仰な身振りでくりかえしていた。その彼が、急にかたくなったわたくしの表情に気づいて、わたくしの視線の方向をふりかえった。

 ああ、なるほど……というように、ニタッと笑うと、彼は立上って老人の方に半身をひらき、顔だけこちらに向けていった。

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  1. 2017/02/28(火) 13:45:42|
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Author:國 乃 礎
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