いしずえ

第二巻受難の巻

 「伯父さんです」

 次に彼は老人にむかって何やら早口にしゃべってから、自分の隣りに椅子をもってきて老人のために席をつくってやった。わたくし達のことを紹介し、一緒に食事をしようとすすめたようであった。

 老人が近づいてくると、わたくし達はいっせいに立上って頭を上げた。それに応える老人の挨拶は、ひどくぎこちなく空々しいものであった。

 老人の前にグラスと取り皿と箸がはこばれ、グラスにはなみなみと酒がつがれた。老人はグラスを取り上げると、嘗るようにちびりと飲んだだけであった。彼はグラスをテーブルの上におくと、長衫の長い袖を前でつきあわせるようにして、その中に両手をかくしてしまった。ゆるやかな袖の中で腕組をしているのかもしれなかった。それは聖徳太子の像を連想させた。

 老人はそれっきりグラスも箸もとろうとはしなかった。黒眼鏡と両袖の中に、不可解な謎をひめたまま、じっと座りつづけていた。見ようによっては遠慮しているようでもあり、又、わたくし達を軽蔑し冷視しているようでもあった。

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  1. 2017/03/01(水) 11:18:55|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷夫人も堀下夫人も、老人の存在には無関心のようであった。彼女らの考えでは、老人もまた、王と同じように自分らにサービスしなければならない存在だったのかもしれない。

 わたくしは彼の存在が気になった。彼の視線がはっきりつかめないことが、妙に心を苛立たせた。黒い眼鏡の奥で彼の眼がわたくし達の一挙手一投足を侮蔑的にねめつけているように思われて仕方がなかった。わたくしの心は黒いレンズをはさんで彼と対決していた。それは中国人と日本人という民族意識による対立のようでもあった。わたくしは、日本人として気品たかく優雅に振舞わねばならないと思った。

 王夫人が巻せんべいのような料理をつみあげた皿と、スープの丼をはこんできた。二つともほかほかと湯気が立ている。王夫人はこれらをつくるために、台所にひっこんだままであったから、この時はじめて伯父と会ったのであるが、彼女はスープの湯気をへだててニコッと視線を送っただけであった。伯父もちょっと顔を動かしただけで、別に表情は変えなかった。彼らはわたくし達のまえで、私情を出し合わないように申し合せでもしているかのようであった。

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  1. 2017/03/02(木) 16:27:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「あったかい中に御馳走になろうよ」

 牧谷夫人や堀下夫人は、まだ食べる気でいるらしい。ほとんど満腹にちかいのであるが、眼がほしいのであった。王も夫人もしきりにすすめた。食べなければ無礼になりそうな雰囲気だった。わたくしはスープを少しと、巻せんべい風の揚物を一本とった。眼の前にとってみると、それらはぎらぎらと油ぎっていて、見ただけでむっと胸がつかえた。

 「この中に入っているのは鯉らしいわね。すごくおいしい……」

 堀下夫人は巻揚を箸でつまみあげて、ぱりぱり食べながら感嘆の声をはなった。

 「外皮は豚の油、豚の内臓をつつんでいる脂肪よ」

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  1. 2017/03/03(金) 17:21:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 王がにこにこしながら手真似もいそがしく説明した。

 「こんなおいしいもの始めてよ、王さん夫人(たいたい)、大へんお上手ね……」

 牧谷夫人は子供達がスープをこぼさないように気を配りながら、夫妻に笑顔をむけて賞賛した。王は得意そうに笑い、さらにその言葉を中国語になおして妻につたえた。王の日本語はいたって幼稚でたどたどしいものであったが、身振りを加えると、なんとか大すじだけは通じあった。彼の妻は夫から牧谷夫人の言葉をつたえきいて、遠慮ぶかそうに、しかも嬉しそうにほほえんだ。

 だが、老人だけは笑わなかった。彼はスープや料理には眼もくれず、依然として両手をかくしたまま姿勢をくずさなかった。

 わたくしは鯉の包み揚をもてあましてしまった。半分でも食べなければ王夫人に悪いと思ったが、油物は満腹の喉を通過しそうにも思われない。王夫人が再び台所に立ち、王がスープをすくいあげている隙に、わたくしは手早く揚物を紙につつみこんで、ハンドバッグの中にいれてしまった。

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  1. 2017/03/04(土) 17:38:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 そっと老人を見ると、やっぱり端然として手足一つ動かさず座りつづけている。

 老人はわたくしの動作をじっと見ていたにちがいない。しかし、わたくしはそれをちゃんと計算に入れていたのである。われわれがいかに王夫人の料理に敬意をいだき、嬉んで食べたかを彼に認識させねばならないと思ったのだ。美食に飢え、ガツガツと王夫人の食卓を食いあらしたと思われたくはなかったのである。

 両袖の中に手をつっこんだまま、じっと動かない老人の姿は、全土におよぶ日本軍の跳梁に、黙々と忍従している中国の大地を思わせた。

 大地の心は民衆の心である。王のような親日家や、風の吹くままにどっちへでも向く末葉のような一部の民衆が、いかに日の丸に秋波を送ってみせたところで、中国の大地に根ざした民衆の心は冷然として動かないのではないか……黙して語ろうとしないのではないか……この黒眼鏡の奥の視線をつかむことが出来ないように、単純軽率な中国観をもってしては、とうてい彼らの心奥にふれることは出来ないのではないか……腕をこまぬき黙然としているこの老人の中にこそ、本当の中国の心があるのかもしれない……老人の冷厳な視線を意識しながら、わたくしは黙々として茶をのみつづけたのであった。

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  1. 2017/03/05(日) 10:37:38|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

  牧谷の人格と能力

 四日の朝、牧谷氏が子供のように嬉々として、

 「さあ、今日はお客さんがくるぞ、スキヤキにするからね。奥さん達も手伝ってくれよ……」といった。

 会合でもあるのかと思っていると、そうではなかった。王震亜と呉亜男姉妹を招待しているのだという。

 何時の間にこういう相談がまとまったものか、それよりも、あの厳格な財政係りの篠原を、どういうふうに納得させたものか、まるで牧谷の魔術にひっかかったようであった。

 正月用の特別費すら出そうとしなかった篠原が、王震亜や呉亜男夫人のために饗宴をはることを承諾したというのだ。しかも立案者の牧谷も篠原も、一度も呉夫人や王の招待を受けたことがないのである。だから奇妙であった。 (呉亜男女史の姉は李思孝(段内閣の文部大臣)の妻)

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  1. 2017/03/06(月) 10:08:40|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 昼過ぎになると、牧谷は両肌ぬぎになりメリヤスのシャツの袖をまくりあげ、鉢巻をきりりっとしめて準備にとりかかった。いつの間に買い整えたものか、台所の古い調理台の上には、白菜、ねぎ、豆腐、しらたき、卵、肉などが、ずらりと並べられていた。

 牧谷夫妻は一対の名コンビのごとく、実に手ぎわよく野菜を洗い、形よく切り揃え、体裁よく皿にもりつけていった。何年も前からコンビでしつづけてきた仕事のように、よどみなく作業はつづけられていった。

 わたくしも堀下夫人も、手をはさむ隙がなかった。牧谷に命ぜられるまま、芸術的に盛りあげられた野菜や肉の皿をかかえて、黙々と二階に運ぶだけである。

 食器をそろえ、箸をそろえ、調味料をそろえ、それらを二階に運び終った頃には、台所ではもう酢の物が出来上り、御飯が炊き上り、コンロには火がおこされていた。

 料理の準備がととのうと、牧谷夫妻は二階に上ってきた。

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  1. 2017/03/07(火) 13:26:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 座敷の真中に長く新聞をしきならべ、その真中に足を折り曲げた食卓をおき、両側には大型の盆をおいて、それぞれにコンロをのせた。真中の食卓には真新しいコンロがおかれ、両側の盆の上には汚れのにじみこんだ古いコンロがおかれた。

 鍋も真中だけはスキヤキ鍋で、両側は汁鍋と煮物用の鍋である。なんのことはない、ピクニックにいって、民家から道具を借りあつめてスキヤキを食べるような案配である。

 それでも座蒲団が並び、卵や酢の物のはいった瀬戸物類が並び、肉や野菜を華やかにもりつけた大皿が並び、盃が並ぶと、いかにも豪華な宴席のように見えてくるから面白い。

 これらの事を牧谷は迅速にてきぱきとやってのけた。ままごとに興じている子供のように、彼の行動は有能的で無心そのものであった。彼の顔は紅潮し、彼の眼は次々と仕事を追い、彼の口はたえず微笑をふくんでいた。不満にみちた顔でむっつりしているふだんの彼とは、まるで別人のようにちがっていた。

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  1. 2017/03/08(水) 10:49:17|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「これでは女が顔負けだわ」

 日頃すばやく動きまわる堀下夫人も、壁によりかかったまま牧谷の指図を待っていた。

 牧谷はどうやら、彼自身も気づかない一つの才能をもっているようである。牧谷夫人の話によれば、満州にいた頃は、自分の好みの料理や漬物は夫人をあてにせず、自分の手でつくっていたという。この材料とこの材料をこう調理すればこういうものが出来るという、料理の勘ともいうべきものを、本質的に持っているのかもしれない。しかも野菜を皿に盛り合わせるという料理美学的な技術も、まったく年季の入った料理人のように美事なものであった。

 これでは彼がわたくしの平素のやり方に不満をいだくのは当然だ。彼はこういうダイナミックな豊かな食卓を望んでいたのだ。

 六千円の副食費の枠内で、キリキリ舞していたわたくしと堀下夫人は「工夫して下さい。我慢して下さい」という篠原の激励を真正直にうけて、このような饗宴など夢にも思い浮び得なかったのであるが、そういう融通性のないわたくし達をだしぬくかの如く、彼はこそこそと篠原を説きふせ、黙々と準備して、わたくし達をあっといわせたのである。

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  1. 2017/03/09(木) 09:19:39|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 だが、不思議なことに、小憎い奴だという思いはおこらなかった。彼の手並のあざやかさと、彼の嬉しそうな顔を見ては、何ん人が彼を憎むことが出来たであろうか。むしろ、こういう計画をたてずにはおられなかった彼の心根を理解することが出来たであろう。

 彼の才能は、アジアの復興とか東西の融合とか人類の未来とか、大衆に先駈けて前進する運動とはまったく無縁のものだったのである。むしろ、出来上った態勢の中で、裏面的な雑務を処理していくのに適わしい男である。いや、いっそ思い切って料理店でも開業した方が最適かもしれない。その彼が、アジア同盟の尖兵になっているのであるから、憂鬱この上ない表情になるのは当然であった。

 四時頃、本田が呉夫人姉妹をつれ帰ってきた。

 呉夫人は暖房のきいている自宅では、赤い花模様の中国服を着て軽快そうにしているのであるが、今日はごろごろするほど着ぶくれて、背中をまるめてちぢこまっていた。服の色が灰色の無地であるのもまずかった。急に二十も年取ったようだ。やっぱり寄る年波というところだろう。外気に冷やされた顔は何時もよりずっと皺が深く、白粉が分離したように表面にういていた。

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  1. 2017/03/10(金) 13:06:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 姉の呉女史は、茶色の袋のような洋服を裾長く着ていた。修道女の制服のようである。彼女も下に何枚も重ね着しているのか、ふくらすずめのようであった。ひっつめ髪の頭が、間に合わせの飾り物のように、不似合なほど小さく見える。今日の外出が、彼女達にとっては一大決意を要するものであったということが、この出立を見て一目で了解された。

 老姉妹は客間に落着くと同時に、今日の招待を大へんよろこんで受けたと明るく挨拶した。そして部屋が広く快適だとか、庭が広くのびのびしているとか、あたりをぐるぐる見廻しながら、しきりに住いをほめはじめた。しかし決して他の人には話しかけようとせず、わたしだけに話しかけてきた。戸松の妻の招待をうけたものと、彼女らは思っているにちがいなかった。

 牧谷夫人の合図によって、わたくし達はスキヤキパーティーの席になっている日本間の方に移っていった。

 牧谷が和服ときちんと着て待っていた。

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  1. 2017/03/11(土) 13:07:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「呉さん二人はそこへ座って下さい」

 彼は自分が座っている真中のコンロの前を指して老姉妹の着席をうながした。

 「篠原君と本田君はこっちへ……今に王が来るから、そこを少しあけておいてくれ。奥さん達はそっちの鍋をかこみなさい。隆義と尚義はここへ来い」

と、それぞれ席を指定した。真中のコンロを囲んだ牧谷親子と呉姉妹のグループを中央にして、左が青年グループ、右が婦人グループと別れたわけである。この宴は牧谷が発起者であると同時に亭主役でもあった。

 彼は人馴れた態度で老婦人達に酒をすすめ、料理の食べ方を教えた。老人達は「食べなさい、食べなさい」とすすめられても、主人側のわたくし達のように、思いっきりたっぷりと取り込んで、生卵をからませてつるりと口に入れるということは出来ないようであった。豆腐一切とか葱二、三切をちょいと取りあげ、生卵の中でゆっくり冷やして、おもむろに口に入れるといった工合である。

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  1. 2017/03/12(日) 13:31:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 もともと彼女らは少食なのである。呉夫人の宴席で、上流階級にぞくするインテリ―婦人達が、熱心にうまそうに物を食べている様子など見たことがなかった。彼女らは箸の先にちょいとつまみあげ、ゆっくりと口に運びこんで、もてあそぶようにして物を食べる。その間でも他人の話に耳をかたむけ、自分も適当に言葉をはさみながら眼と頬はたえず微笑をふくんでいる。宴席は食べるためにあるのではなく、食べながら打解けて話をし、雰囲気を楽しむためのものであった。

 スキヤキを肴に酒を飲み、その合間合間に忙しそうに鍋の中に肉や豆腐をつぎ足し、そのついでに「取りなさい、食べなさい」といわれたところで、社交術にたけた老女達の心には、どうもしっくり来ないようであった。

 その中に牧谷の方だけが、すっかりいい気分によっぱらってしまったようである。「呉さん……」が「おばあさん」になった。「人が酒を飲んでいるのに、飯を食わんでもいいでしょう。飯はそうしといて、まあ一杯おやりなさい」と、多少からみ気味になってきた。

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  1. 2017/03/14(火) 18:41:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 あげくの果に唄が出た。「木曾のなかのりさんは……」牧谷は顔を金時のように赤らめながら、蛮声を張り上げて唄い出した。愉快で愉快でたまらんというように、上半身をふりながら手拍子とって唄っている。これはもう牧谷ではなく、牧谷少年であった。現実の今だけに生きている、とらわれのない赤裸々な人間の姿であった。

 まさに宴酣といった頃、王震亜がやってきた。

 「いよう~王さん、待ってたよ」

 牧谷はわめくような声をかけると、立上って王をひきずりこむようにして、自分の隣にすわらせた。それから牧谷と王の飲み比べのようになってしまった。

 ふと気がつくと、何時の間に席をぬけ出したものか、老姉妹の姿は見えなくなっていた。

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  1. 2017/03/15(水) 13:38:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷は木曾のなかのりさんを繰返し繰返し唄った。彼は信州の生れであるから、青年時代からこの唄をうたいつづけてきたものであろう。この唄をうたうことによって青春が蘇ってきたかのように、喉に筋を立て目をとじ恍惚としてうたっているのであった。時には、人生における失意が、彼の意識の底ですすりないているような物哀れな表情をする時もあった。

 騒々しく浮きたった人間の歓楽は、決して幸福そのものではない。その底には失望があり、失意があり、絶望がひそんでいる。牧谷の場合もこの二つは決して別のものではなさそうだ。酒は涙か溜息か、心の憂さの捨てどころかもしれない。

 志あれども力足らず、青年と共に走るには、足枷のごとく妻子五人がまつわりついている、理想と現実の狭間に立って、牧谷は悶々としているにちがいなかった。酒に逃避し酒に飲まれ、酒に乱れ酔いつぶれることが、だらしなく卑怯なことであるとしても、酒によって憂さを捨てることの出来る牧谷はしあわせであった。

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  1. 2017/03/16(木) 08:48:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 王震亜の酔い方には絶望の影がなかった。彼はぜんまいをかけられて踊り出した人形のように、アルコールを胃にそそぐことによって浮れ出しているにすぎなかった。

 「王さん、待ってて頂戴な~」と相好をくずして唄いまくった。彼は叉「支那の夜」も怪しげな日本語と怪しげな節まわしで唄った。

 篠原も軍歌をうたった。彼は軍歌以外は知らないようであった。本田だけは相変らず虚無的な笑いを口の端にうかべて黙りこんでいた。時にえへらえへらと声に出して笑うこともあったが、心からこの空気になじみこんでいるようには見えなかった。屈託なくケラケラ笑いこけているのは婦人達や子供達であった。

 呉老姉妹はなかなか帰ってこなかった。手洗いに立ったとしては長すぎたし、一言の挨拶もなしに帰ったとも思われない。

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/17(金) 15:46:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしは席をぬけ出して客間に出てみた。ここにもいなかった。扉をあけてベランダに出てみた。そこに置かれた粗末なテーブルをはさんで、姉妹は向き合って腰かけていた。二人ともオーバーを着こんでいる。わたくしも客間から椅子を運んできて、二人の間に座った。スリッパを通してコンクリートの冷たさが、ひやひやと這いのぼってくる。

 「お寒くありませんか。ここ、冷たいでしょう」

 足をたたいて、ぶるっと震えてみせた。すると呉亜男夫人は、オーバーの裾をさっとめくり更に中国服の裾をまくり上げて、これを見よといわんばかりに片足を突き出して見せた。

 脛まである綿入のズボンのようなものをはいていた。黒襦子の地に橙色の花模様が一面にししゅうされている。初々しい模様であった。この人はどんな場合にも若さに執着し、老人にはなりきれない人のようである。

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  1. 2017/03/18(土) 15:45:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「わたしも、姉さんも、牧谷さん嫌いっ……」

 呉夫人は急に顔をしかめると、吐き出すようにいった。渋柿をくったような顔であった。その顔を姉にむけて、何やら英語でいうと、その表情が姉の顔にも伝染したかのように、小鼻をしかめ眼のまわりに皺をよせ、口をとがらせて頸をふった。「大きらい」といった身振りであった。

 「牧谷さん、わたしお友達でない、戸松さん夫人お友達、牧谷さん、わたし、はずかしい」

 戸松の妻とは友達だが、牧谷とは友達でない。戸松の妻の招待だと思って来たのだが、牧谷が招いたのなら来るんでなかった。牧谷は自分達を侮辱しているという意味らしい。彼女はそれを中国人特有の打ちつけるような、ぴしぴしした口調でいった。

 彼女らの常識からいうならば、たしかに牧谷の行為は客にたいする侮辱であったかもしれない。主自身が酔ってしまって脱線してしまったのでは、客を招待した意義が成り立たない。主はつねに客達をいかに楽しく過させるかに心を配り、客の誇りを傷つけるような事があってはならないのである。

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  1. 2017/03/19(日) 03:22:13|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 日本では武士道や茶道によって、人間と人間の心のむすびを、一つの哲学、一つの芸術の高さにまで練りあげているのであるが、一般の庶民世界では、人間関係をむすび合うための感情的意志的鍛練があまりなされていない。そのため、只集まって飲んで食って騒げば、それで招待の目的が果されると思っているのであった。

 酒に乱れ、自己本位にさわぐことは、日本の女の前ではある程度許される。日本の女は長い歴史を通して、そうした男達の生態をいやというほど見せつけられてきたから、伝統的免疫性をおびている。しかし中国では、ことに西欧的教育をうけた呉老姉妹には、許すべからざる無礼行為だったのである。彼女らは屈辱をうけに来たと思ったらしい。

 呉亜男夫人が顔をけいれんさせながら、同じ意味のことを繰返している時、本田がのっそりと近よってきた。

 「本田さん、呉さんに大変失礼なことをしてしまったわ。ここで果物でも召上ってもらって、あなたお送りして下さらない」

 わたしは立上って、彼にささやいた。

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/20(月) 11:35:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「やっぱり怒っているんでしょうね。僕もそうじゃないかと思っていましたよ。飲むとああなんだからなあ、牧谷さんは……自分では結構みんなを愉快にさせているつもりなんでしょう。まあ、仕方がありません、今堀下さんの奥さんにお茶と果物をもってきてもらいましょう」

 彼は苦笑いしながら、扉の奥にきえていった。彼が戻ってきて暫らくして、堀下夫人がお茶とピーナッツを入れた皿をもって近づいてきた。デザートにピーナツとは、これも又考えがなさすぎる。わたくしはすっかり面喰ってしまった。

 「あらっ、奥さん、果物じゃなかったの?」

 わたくしはややなじるような口調でいった。

 「そんなもの買ってないのよ、仕方がないから近所でこれ買ってきたの、果物は市場の方まで行かなきゃないわ」

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/21(火) 10:27:22|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 堀下夫人もむきになって弁解した。まったく、この近所にはピーナツか飴ぐらいなものしか売っていないのである。

 わたくし達はいいわけしながら老姉妹にピーナツと茶をすすめ、自分達も二、三粒づつつまみあげて奥歯でねんごろに噛みくだいた。別に話題はなかった。

 日本間から「王さん待ってて頂戴ね……」という牧谷と王の声がもつれあって響いてきた。一節ごとに合の手の囃のように「戸松先生万歳」と王が大声で叫んでいる。呉夫人はピーナツを噛みながら顔をしかめて、ぶるぶるっと頭をふった。

 声が止んでいくばくも立たない時であった。ベランダの入口に、にゅっと牧谷の赤ら顔がのぞいた。赤銅色に色づいた皮膚の表面がらぎらと光り、眼がぐっと座っている。それはとんでもないことをしでかしそうな妖しい光をたたえた眼であった。その上彼は頭に向う鉢巻をしていた。今にも襲いかかりそうな形相である。

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/22(水) 21:02:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼はじろりとテーブルの上をねめまわすと、わたくしの顔にじっと瞳をすえていった。

 「また、自分達ばかり食べている……」

 わたくしは驚いて彼の顔をねめつけた。堀下夫人も眼をぐるりとむき、口をぽかんと開けて見上げている。本田があわてて立上り、

 「あんたはあっちに酒があるじゃないか。ここにはお客さんがいるんだよ」

と、背中をおしやった。牧谷は二、三歩よろよろっとしたが、素直にとことこ行ってしまった。

 呉老姉妹はハンドバッグを持って立上り、

 「本田さん、送って頂戴」

と哀願するように本田の腕をつかんだ。

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/23(木) 15:01:52|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 やがてのこと、二人は本田にいたわられながら玄関を出て行った。今夜の本田は、さしづめ彼女達をまもるナイトといったところである。

 翌朝、牧谷は元通り無口で静かな男にかえっていた。双子の世話に忙しい妻に手伝って、赤ん坊を膝に抱きとりミルクをのませたりしていた。アルコールの入っていない彼は、家族を愛し、よく世話をする善良な夫であり父親であった。酩酊中の記憶がまったく失せてしまっているのか、それとも白ばくれているのか知らないが、何事もなかったようにけろりとしているのは、酒に酔ったことのないわたくしにはとうてい理解出来ないことであった。

 だいたい、日本の男は牧谷に限らず、酒に酔うと乱れやすく野性に立ちかえりやすい。上海に来て八ヵ月の間、わたくしはまだ白人や中国人が酔っぱらっているのを見たことがなかった。昨夜の王が初めてである。しかし王には酔っぱらいの凄みとかいやらしさとかいうものは無かった。雰囲気につられて「王さん待っててちょうだいな……」をがなったり「戸松先生、万歳」を連発させているにすぎなかった。

   (43 43' 23)

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  1. 2017/03/24(金) 08:57:26|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 中国人はよく公論する。群集の前で相手の非をならし、自分の立場をがんこに主張する。しかし酒に乱れて我を失うような事はあまりないようだ。仁と礼を重んずる伝統的歴史をもつだけに、何かしら、底ふかい慎重さを感じさせる民族である。若い男女の露骨な性愛の風潮や軽薄な言動は西洋文化の暴風にふきまくられて零れ落ちた果実のようなもので、中国の伝統から転落して虫にくわれながら色づいたものであるにすぎない。又親日抗日をさけぶわめきも、嵐にみだれる枝葉のさわぎにも似たものである。中国の根幹は黙々として尊大にそびえ、大地の中にどっかと根を下しているように思われる。われわれはその根幹に気づいていなかったようだ。ざわめく枝葉を見、転落して色めいている果実を見、それを中国だと思いこんでいたようだ。

 黙々とした幹に手をかけてみれば、びくとも動かない。仰げば葉がくれにしっかりとした固い実のついているのも見える。袖の中に手をさしこんだまま、黙々としてわたくし達の行動をみつめていた王の伯父や、「牧谷さんに侮辱された」と憤然として帰って行った呉姉妹や、「われわれは日本に屈伏しているのではない、中国の興隆をはかるには、日本と結ぶことが最適であると考えているのみだ」といっていた李青年……など、皆親日陣営の中国人ではあるが、日本人にとっては決して甘い存在ではなさそうだ。

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  1. 2017/03/25(土) 13:38:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 われわれは彼らにたいするのに、あまりにも不用意すぎるのではあるまいか。スキヤキをつくって御馳走したつもりでも、かえって彼らを怒らせ警戒させてしまったのではあるまいか。

 人を招いてせっせと御馳走し、自分だけ独り酔っぱらって、人も同じように愉快になっていると思っている……いい気な人間、一人がってんのお人好し、それが日本人かもしれない。それでいて、自分の身に関することとなると、抜け目なく気を配り人の意表をつくのが得意である。

 二、三日後、牧谷夫人が、

 「主人は明日内地にかえるのよ。信州の母が病気なので見舞いに帰るの。」

といった時にはびっくりした。奇襲攻撃のように、発表するや直ちにぱっと鳥が飛びたつように牧谷は飛びたってしまったのであった。

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  1. 2017/03/26(日) 13:00:46|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷が内地にかえってから二十日ばかりたった。旧暦の正月もおわり、二月は足許まで近づいていた。

 二月早々に戸松が上海にかえってくることは既定のことであった。その一足前にかえっておきたいという考えであろうか、釜山で出した牧谷の手紙には、満州で二、三日滞在して、今月末にはかえると書いてあった。

 牧谷がいなくなってから、二階と階下は見えざる垣根で劃されたように交渉が乏しくなっていた。気がねをする者のいない二階は、女子供の天国で、軽口をたたいては笑い、思出に興じては笑い、屈託のない雰囲気がみちみちていた。鬼のいぬ間の洗濯というところであった。

 それにひきかえ、青年達は緊張していた。戸松がかえってきたら、留守中の報告を立派に出来るように仕事の実績をつんでおかねばならない。それなのに、仕事は漠としてまとめようがないのだ。仕方がないから既成の関係の人々をたずねて、情報をあつめておこうということになる。その彼らが、どうも自分達が憲兵に尾行されているらしいと気づいたのである。

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  1. 2017/03/27(月) 10:02:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 憲兵隊では戸松の和平運動を、あくまで反戦運動であるとにらんでいる。そのため、戸松の足どりを追いながら、一方では上海の拠城の動静を探索しようとしているのであった。

 憲兵の陰険と非情を見聞きしていた青年達は、つよい対抗意識にもえながらも、打つべき手を知らなかった。関係すじを探りこまれることを恐れて、彼らは家に引きこもりがちになっていた。階下の居室にひきこもって何をしているものか、食事の時以外は二階に上ってくることもめったになかった。

 「今朝、門の前を行ったり来たりしていた男は臭いなあ……」

 「うん、あれもそうだよ」

 二人の青年の話に聴き耳をたてて、

 「それ、何んの話?」

と、きいても、

 「いや、何んでもありません。いつも通る中国人のことをいっていたのですよ」

 篠原は明るい眼に笑いをふくんで、はぐらかしてしまった。

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  1. 2017/03/28(火) 14:57:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼は夫人達に不安をあたえてはならないと思っていたにちがいない。そのため、わたくし達は、戸松が帰ってきて話がおおっぴらに張れ上ってくるまでは、憲兵が家のまわりをうろついていることなど、誰一人気づかないでいたのである。

 気の小さい女に、仕事の苦労や危険を知らせまいとるすことは、一見女を庇っているようであって、事実は女を愚者にすることであった。それは女を囲って、飼っているにも等しいものである。

 男の苦闘を想像してみるきっかけすらも与えられず、女は只、物が足りない、金が足りない、愛情が足りないと託ちつづけ、その合い間合い間には、してもしなくてもいいようなたわいない話に打ち興じ、無為に人生を消耗することとなる。

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  1. 2017/03/30(木) 11:32:33|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 戸松が内地でどのような苦闘をつづけていたのか、わたくしには全部わかっていなかった。彼の手紙は「おせん泣かすな、馬肥やせ」の一筆を妻に書き送った古人のごとく、いたって簡単で命令的で、彼の仕事の内容や動きなどには一度もふれていなかった。

 堀下の手紙も、電報文に近い。存命通知のようなものだ。であるから、堀下夫人も夫がどのような苦難に遭遇しているのか、はかり知ることが出来ないでいた。長く放ったらかしにされているのは、愛情が欠乏しているからだと考えているようであった。

 牧谷夫人にしても、仕事の内容や男達の苦難を、正確に理解しているというわけではなかった。暫時の窮乏に耐えてさえいれば、やがて前途に陽光がさしてくるという風に牧谷に宥められそれを信じているにすぎなかった。

 女の園は嵐からは完全にまもられていた。しかし、そこでは無意味で無気力な、白痴の生活がくりかえされているにすぎなかった。

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  1. 2017/03/31(金) 10:49:57|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

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Author:國 乃 礎
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