いしずえ

第二巻受難の巻

  ヒステリックになった牧谷夫人

 その無風の倦怠の園に、ある日、突如として一陣の風が吹きこんできた。そして、ゆっくりゆっくり旋回しつつ、怪しげな旋風となって人々の心を吹きたてていった。

 それは牧谷にあてた女性の手紙で、長崎の料亭か旅館かで働いている女からのものであった。これは白痴化した頭を刺激するには、この上もなくかっこうの刺激剤であった。

 郵便箱からそれを取り出してきた堀下夫人は、半分冷やかし半分おどかしながら、牧谷夫人にそれを手渡した。自身に満ちた顔で、ケラケラ笑いながら受けとった牧谷夫人は、裏をかえして差出し人の名前をみたとき、不審そうにさっと眉をひそめた。

 彼女はわたくし達の好奇心にひかる眼を黙視して、いく分あたふたと泳ぐような歩きぶりで日本間に消えていった。そこには二人の嬰児が枕を並べて寝かされている。彼女はそこで、とくと手紙を読んだ筈であった。しかし、彼女はその日一日は手紙について何も語らなかった。そのため、わたくし達の興味も関心もすっかりそがれてしまい、翌朝にはけろりとわすれ果てていた。

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  1. 2017/04/01(土) 10:44:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 朝食後、「アンナ・カレーニナ」に読みふけっていたわたくしは、背後にひびく牧谷夫人のヒステリックな声にびっくりして振り返ってみた。何時そこに来たのか、南側の壁にすえられた大きな姿見の前に立って、彼女は髪をとかしているところであった。長い間パーマもカットもわすれられてしまった毛髪は、平安朝の童女の髪のように、素直にのびてゆたかに両肩にたれ下っていた。

 「お母ちゃんは、もう知らないッ」

 彼女は鏡に向ったまま、いきまいていた。

 部屋の入口には、これも何時頃からそこに立っていたのか、隆義が張れっ面をしてドアーによりかかり、ハンドルをガチャガチャッ、ガチャガチャッと焼糞になってまわしていた。何かをねだって怒られた様子であった。

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  1. 2017/04/02(日) 13:01:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「お母ちゃんはもう死んじゃうからねッ」

 牧谷夫人は再び悲愴な声をあげた。子供を叱る言葉にしては激烈にすぎるようだ。平素おだやかな彼女の言葉にしては、大分調子が狂っている。

 子供も敏感に何事かを感じとったのであろうか、おずおずと母親に近づいてきて、じっと母親を見上げた。そして鏡のふちをそっと撫でながら「ごめんね、お母ちゃん、ごめんなさい……」といった。

 この子は尚義のような強い個性はなかったが、素直で愛らしいところのある子供である。母親はこの子のこの性格を愛していた筈であったが、今朝は様子がちがっていた。

 「お母ちゃんが死んだら、今に新しいお母ちゃんが来るから、隆義はそのお母さんの子になりなさいッ」

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  1. 2017/04/03(月) 13:47:24|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしは机の前の椅子から、応接用のソファーに席をうつした。そこからは、鏡の中の彼女の顔を見ることが出来た。

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  1. 2017/04/04(火) 21:04:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 荒々しく幼い子供に絶縁をいいわたしている彼女の顔は、絶望的な影にくまどられ、青白んでいた。彼女は右手の櫛をぐっと額の生え際からさし入れて、一気に後頭部にむかって走らせた。後にたれていた毛髪は、櫛につられて中吊となり、次の瞬間には死にかかった蛇のように、くたくたくたくたと肩に垂れこぼれていった。

 彼女は髪をまとめることを忘れてしまったかのように、首をふり立てながら何度も何度も荒々しく櫛けづりつづけた。頭の中に凝結しているものを忙しく掻きたてては払い落しているかのようであった。

 青白く燃え上った焔のような母親の姿に、すがりついていきようもなく、隆義はついにしくしくと眼に手をあてて泣き出してしまった。

 「お母ちゃん、死んじゃいや、死んじゃいや、ぼく、いい子になるから」

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  1. 2017/04/05(水) 14:35:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 子供は、泣きじゃくりながら、とぎれとぎれの声で詫び言をいった。

 この頃になって、わたくしはやっと昨日の手紙を思出した。そして、母と子の感情が食い違っていることに気づいた。

 子供の我儘が、母親の感情を刺激したことは事実であったが、それ以前に、母の感情は内面的に膨張し、たぎりたっていたに相違ない。それは、大人の世界で発酵し膨張したものであって、子供の関知しないものであった。

 わたくしは隆義の肩に手をかけて、覗きこむようにしていった。

 「これから、お母さんのいうことをよくきくわね。わかったらあっちで尚ちゃんと遊びなさい。二人で下の小父さん達のところへ行ってごらん」

 隆義はこくりこくり頷きながら、わたくしに肩をおされるまま、ベランダにつづいた階段へと降りていった。

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  1. 2017/04/06(木) 13:18:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

新聞 いしずえ 春季号 4月1日発行 №39

新聞 №39

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  1. 2017/04/07(金) 08:40:51|
  2. 新聞

第二巻受難の巻

  牧谷夫人の怒りと怖れ

 部屋に帰ってみると、牧谷夫人は髪をたらしたまま、鏡の前に凝然とたちすくんでいた。髪をまとめあげる気になれないのか、それとも鏡の中の自分と対応しつつ、散乱した心をひろい集めようとしているのか、愛嬌のあるまるい鼻も、二十顎も、内面の緊張につよく引き締められて暗い影をくまどっていた。

 「どうしたのよ、奥さん……」

 ソファーに帰ったわたくしは、とがめるように声をかけた。

 すると彼女は、鏡に向ったまま、返事の代りに大きな溜息をついた。背と肩のくずれるような動きが、溜息の深さを思わせた。

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  1. 2017/04/07(金) 09:03:41|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 やがて、思い切ったようにくるりとこちらを向くと、彼女は髪を垂らし、櫛をもったまま近づいてきて、わたくしの前の椅子に腰をおろした。

 「昨日の手紙ね、あれ、牧谷がかえるまでそっとしておこうと思ったの。だけど、どうも気になるので、ゆうべ、堀下さんの奥さんに相談してみたのよ」

 堀下夫人は牧谷の留守中、日本間で牧谷夫人母子といっしょに寝ていた。おそらく寂寥たる夜更の静けさに、いたたまれない気持になって、苦しみを打ち明けたものであろう。

 「あの奥さんは、牧谷が帰る前に手を打っておいた方がいいだろうっていうのよ。それでわたしどうしたらいいものかと思って、さっきもう一度あの手紙を出して読んでいたの。そうしたら子供が今日に限って、いやにしつこくねだるのよ。大した事でもないのに、今日は無性に腹が立ってきてね……」

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  1. 2017/04/08(土) 10:32:17|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼女の顔に、ちらっと悔いと反省の色がうかんだ。

 「それはそうよ。悩み苦しんでいる時には、わずかな刺激にも感情が破れやすいものなのよ。子供も災難だわね」

 わたしが苦笑すると、彼女もはじめて口元を曲げて笑うような表情をしてみせた。そして思出したように、あわてて髪を二、三回櫛けずった。

 髪の乱れは心の乱れと密接な関係があるようだ。その日の彼女の印象的な姿を思出す度に、わたくしは何時もそう考える。

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  1. 2017/04/09(日) 17:58:52|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 それほど、彼女の両肩に垂れ下った髪の毛は、彼女の苦悩を象徴していた。彼女が背中にむかって揃えるように櫛けづっても、直ぐるぐると前の方に乱れよって来るのであった。ぽっちゃりとした豊かな頬に、筋をひくように流れている幾筋かの黒い毛は、もの悲しさといじらしさを誘いたてずにはいなかった。

 「よっぽど貴方を悲しませるような内容だったのね。どんなことが書いてあったの」

 わたくしは彼女の悲しみをそっと受けとるかのように、しんみりときいてみた。

 「女が上海に来るっていうのよ、牧谷が上海によぶ約束したらしいのよ」

 彼女は投げつけるような調子でいった。

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  1. 2017/04/10(月) 09:17:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「まさか……まさか……その人は牧谷さんの奥さんになろうと思って来るんじゃないでしょう。上海に憧れて、牧谷さんを手蔓にしてくるんじゃいの」

 「そんなあっさりした手紙じゃないわよ。牧谷に妻子のあることなんか、てんで念頭においていない手紙よ。だから怖いわ。一途な女じゃないかと思うの。一時も貴男の事を思わぬ日はありません。今頃は京城、明日は奉天と貴男の旅といっしょに私の心も旅をしていますなんて書いてあるのよ。そして、上海に着いたら直ぐよんで頂戴って、何度も何度も念をおしているのよ。ただ事ではないわよ」

 彼女の唇は手紙の一節一節を繰返す度に痙攣し、いよいよ色を失っていくようであった。それは怒りではなく、もはや恐怖の色であった。

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  1. 2017/04/11(火) 13:26:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「牧谷は上海には妻子はいないような事をいっているのよ。女が来たら何んとかなると思ってるんだわ、きっと……ほんとに憎い奴だわ」

 牧谷を考えるとき、彼女の感情は怒りに激し、手紙の女の感情と意志をみつめるとき、それは怖れに変えるようであった。

 しかし、どうもわたくしには、手紙の内容が実感となってせまって来なかった。

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  1. 2017/04/12(水) 14:28:01|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷のあの田舎武士のような武骨な風貌、むっつりとした重い口、それにもまして五人の家族を背負って人生と闘ってきたきびしい生活の年輪、そういうもののすべてが、彼と恋とを無縁なものにしているように思えてならないのであった。牧谷が恋のとりこになることなど、とても本気になって考えられない事であった。

 しかし、今の牧谷夫人は、世界中の女が全部自分の夫をねらっているような妄想にとらわれていた。夫の心がすでにその女の掌中に握りこまれてしまったかのような焦燥にとらわれていた。

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  1. 2017/04/13(木) 09:30:07|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「こんな事になるんなら、一人で内地へ帰すんじゃなかったわ。内地の女は真面目だからね。その女も真剣なのよ。上海に来る決意でいるのよ。牧谷と一緒になる気でいるのよ。

 堀下さんの奥さんはいってたわ。この勢いでは必ず上海にやって来るだろうって……あの人、わたしにこっぴどい事を書いてやれっていうのよ。こんな事は、牧谷にまかせておいてはいけないっていうのよ」

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  1. 2017/04/14(金) 15:10:55|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしは黙ったまま、彼女の言葉に頷いた。牧谷と恋愛とを結びつけて考えることは滑稽であったが、牧谷夫人や堀下夫人が事実として深刻に認めているところをみると、肯定しないわけにはいかなかった。じっさい、中年の男の心理など、わたくしの理解の外にぞくするものであった。

 それにしても、あのいかめしい顔をした牧谷が、どんな眼をし、どんな口をして、女を口説いたものであろうか。わたくしには想像もできないことであった。

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  1. 2017/04/15(土) 16:56:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

  夫人の絶望

 「女のところへわたし手紙をやるわ。上海に妻子がぞろぞろいることや、貧乏していることや、あんたは騙されているんだっていうことなんかを全部書いてやるわ……びっくりさせてやる……」

 牧谷夫人は憤然といい放った~かと思うと、今度は急にがっくりと肩を落し悲痛な声でいい出した。

 「あ~あ、わたし牧谷の為に随分苦労してきたのよ。彼に期待をかけて辛抱してきたのよ。それなのにどうでしょう、勝手なものだわ、男って勝手なものだわ」

 恐怖と怒りは、どうやら不信と絶望に変ってきたようであった。

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  1. 2017/04/16(日) 13:30:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「あなた、結婚なんてつまらないものよ。男って信じるに足りないものだわ。女の子には母親は結婚なんてすすめるもんじゃないわね。こんな目に会わせるなんて、かわいそうよ」

 牧谷夫人の頬からは涙があふれるように流れおちてきた。いままで怒りにせき止められていた涙が、一度にどっと噴き出してきたかのようであった。

 頬に垂れ下っている髪の毛と、あふれては落ちあふれては落ちる涙との対比は、彼女の失望と悲憤をいっそう切ないものに深めていた。彼女の心は、ずたずたにひきさかれ、愛憎悲憤の矛盾した感情の淵にのたうちまわっているにちがいなかった。

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  1. 2017/04/17(月) 10:34:18|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼女はくやしいのだ、憎いのだ、苦しいのだ、そして愛に絶望しているのだ。この最大限に膨張した複雑で純粋な感情を、単純に嫉妬とよぶことはふさわしくない。

 それは信愛していた者から裏切られた衝動による心の瓦解ともいうべきものであった。信ずる者に突然刃をつきつけられた時の、あの取り乱した狼狽と絶望であった。

 彼女の悲しみは、やがて、ひたひたとわたくしの心にも伝わり、しみとおり、やがてすっぽりとわたくしの心をつつみこんでしまった。わたくしは、急に女の運命というものが、ひどくみじめで哀れなものに思われてきた。幸も不幸も、男によって投げ与えられる飼育動物のように悲惨なものに思われてきた。

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  1. 2017/04/18(火) 16:23:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

  不可解な調和

 わたくしは、牧谷夫人を悲歎と絶望から救ってやらねばならないと考えた。牧谷の心をもう一度、夫人と子供の上に引き戻さねばならないと思った。

 翌日、わたくしは、階下の青年達の部屋を訪れ、一部始終を語って彼らの協力をもとめた。

 牧谷夫人は戸松が帰ってきたら牧谷と離別し、内地へ帰れるよう相談にのってもらうつもりだといっていた。

 青年達は、戸松の耳には入れるべきでないという意見だった。牧谷が帰ったら、彼の心底を打診し、忠告し、戸松が帰るまでには円満に解決しておきたいといった。

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  1. 2017/04/19(水) 17:09:41|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「まかせておいて下さい」

 彼らは自身ありげに、又興味ありそうに、にやにや笑いながらいった。

 四、五日して牧谷が何食わぬ顔をしてかえってきた。彼は郷里の長野の様子や、三日間滞在した満州の旧友の近況などを、手短かに語ってきかせた。これは牧谷夫人には相通じる話であったが、外の者には関心がもてなかった。

 牧谷が疲れたといって日本間にひきこもり、家族だけの拠城にとじこもってしまうと、再び以前の空気が家中に立ちこめ、日本間はたちまち、家の中の牧谷一家といった存在になってしまった。わたくし達は、なるべくそこに近よらないようにした。

 牧谷夫人が例の手紙を持ち出して、牧谷をなじり攻めているであろうことを想像し、その成行に関心をもちながらも、素知らぬ風をして一同が会する夕食の時間がくるのを待った。

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  1. 2017/04/20(木) 15:07:37|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 夕食は何時ものとおり、日本間でおこなわれた。牧谷は自分で老酒を買ってきて、漬物をつつきながら、独酌でちびりちびりとやり出した。アルコールが入ると、彼のむっつりした口は軽くなった。二、三合が適量らしく、四合びんの三分の二くらいの量を飲み終るころになると、彼はいたって上機嫌になり、子供をからかったり、わたくし達にも笑談をいったりした。

 牧谷夫人は夫の独酌には無縁のような顔をして、箸を動かしていた。これはいつもの習慣であった。彼女の表情には、つい四、五日前のあの狂おしいばかりの憎悪と悲憤は、毛筋ほども影をとどめていなかった。以前と変らない、のどかな牧谷夫妻の夕食風景だった。

 それにしても、牧谷夫人の態度は不可解そのものであった。手紙の衝撃による彼女の心の動揺は、わたくし達の心にも伝わったまま、今も尚デリケートな動きを残している。それなのに、当の彼女はけろりとしているのである。

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  1. 2017/04/21(金) 13:33:56|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 牧谷の弁解によって、あの手紙にまつわる疑いも憎しみも怒りも、寸時の間に洗い流されてしまったというのであろうか。夫婦の相剋とは、そんなに根の浅い単純なものなのであろうか。二人の間には、わたくしには理解出来ない中年夫婦の不可思議な調和の妙味があるのであろうか。どうもそうだとしか思われない。

 これは俗にいう腐れ縁による諦感ではなさそうだ、又お茶漬の味というような、さらりとした洒脱なものでもなさそうだ。落ちつくべきところへ落ちついていく流水のごとく、運命づけられた二人の巣に、当然のごとく帰りついたという安定感のようなものであった。

 翌夜、牧谷氏は遅く帰ってきた。わたくしと堀下夫人がベッドに入って間もない時であった。日本間のドアーがとつぜん乱暴におしあけられ、牧谷夫人が転ぶようにして飛び出してきた。

 「助けてえ……」

 彼女は悲鳴をあげながら、ドアーを開けっ放しにして、ベランダにつづく階段に向って走り出した。

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  1. 2017/04/22(土) 15:59:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしは枕元の壁のスイッチをおした。ぱっと明るくなった部屋の中を、牧谷が日本刀をもって走っていた。戸松の軍刀であった。彼はまだ背広を着たままであった。刀の柄をぎっしりとつかみ、切先を下げたまま夫人の後を追おうとしていた。彼の形相は異様であった。

 いつも小さくひっこんで見える眼が、三、四倍の大きさにとび出して見えた。眼光というものが、心のエネルギーの象徴であることを、思い知らせるような眼の色であった。

 牧谷は本気になって怒っているようであった。彼の中にこのように真剣に怒る純粋性が潜んでいたということは、わたくしにとっては新鮮な発見であった。酔っぱらって睨みつけている時の彼には、低俗さと愚鈍さを感じていたが、今夜の彼には、圧倒されるような迫力がみなぎっていた。彼の心の深部から吹き出したような怒りは、彼の全身を焔のような気迫につつみ、まるで荒々しくたくましい仁王のようであった。

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  1. 2017/04/23(日) 17:09:29|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 男が真剣に怒っている姿は美しいものだ。

 愛が人間性の真実として賞讃されるならば、怒りも又、人間性の真実としてゆるされねばならない。戸松の怒りにふれる度に、彼の心の深淵をのぞきみる思いをしたことが度々であったが、今夜の牧谷氏の怒りの中にも、日頃はかくされている彼の心の深部を発見したような気がしたのであった。

 まさか、牧谷が日本刀で夫人を斬り殺してしまう気であるとは思えない。彼は妻の中にある何物かを切り捨ててしまいたい衝動にかられて刀を持ちだしたのにちがいなかった。

 彼は乱戦の場にあわてて駈けつける侍のように、刀の切っ先をさげたまま、つつつ……と階段にむかって走っていた。

 一瞬、彼の気迫にのまれ棒立ちになっていたわたくしは、無意識の中に着物をまとい、彼の後を追った。堀下夫人が向う側のベッドでどんな顔をしていたか、何をしていたか、振返ってみる心の余裕はなかった。

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  1. 2017/04/24(月) 11:11:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしが階段を下り切った時、牧谷は一度庭に出て見て再び中に入ってきたところであった。彼はあきらめたように、ゆっくりと階段を登り出したが、何を思ったか、曲り角でどっかと腰を下ろしてしまった。そして刀を前に立てて、両手でしっかと柄をもったまま階下を睨め下した。戦況を高所からみまもっている軍師のようであった。

 牧谷夫人はたしか青年達の部屋に逃げこんだはずであった。この寒空に庭や台所の隅に逃げこんでいく筈はなかった。青年達の部屋は鍵がかけられ、びくとも動かない。彼等がこの物音に気付かない程寝込んでいる時間ではないから、彼らはおそらく、牧谷夫人をかばいながら牧谷の心が落着くのを待っているのにちがいなかった。

 わたくしは、ずかずかっと階段をのぼっていった。そうするより外には、行動のとりようがなかった。

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  1. 2017/04/25(火) 18:50:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 すると、階段の真中にがんばっていた牧谷が、つと身体を動かして通路をあけてくれた。わたくしは内心「おやっ」と思った。と同時に、漠然とながら、牧谷の怒りが筋の通ったものであるにちがいないと感じた。興奮の中にも他人にたいする冷静な態度を失わない牧谷は、男らしくあっぱれに見えた。

 わたくしは牧谷のそばで立ち止まると、彼と並んで階段に腰をかけた。

 「牧谷さん、何をそんなに怒っているんです?」

 彼の機嫌を取るような口調できいてみた。彼の返事は、以外にもしんみりした声でしかも理論だっていた。

 「奥さん、夫婦というものは互いに欠点を許しあい庇いあっていくもんだと思いませんか。女房の悪口をいいふらして歩く男を立派な亭主だと思いますか」

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  1. 2017/04/26(水) 13:57:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 わたくしがかすかに首をふっているのをちらっと横眼でみとめると、

 「それと同じように、亭主の欠点を人にあばきちらす女を、いい女房といえますか」

と畳み込んできた。

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  1. 2017/04/27(木) 19:35:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 彼のいわんとすることが、大体察しがついてきた。彼は今夜酒の席で、例の手紙の事件について、さんざん忠告されるか、からかわれるかしてきたに相違なかった。

 「亭主を疑って、亭主の悪口をひろげたてて、亭主が人から軽蔑されることを、平気でやる女房をもった亭主のこの気持があんたにはわかりますかい」

 牧谷の攻撃はどうやら、わたくしの方にも向けられているようだ。同じ穴の貉として、騒ぎの片棒をかついだわたくしにも不満を持っていることは明らかであった。

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  1. 2017/04/28(金) 11:20:36|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第二巻受難の巻

 「牧谷さん、あなたは、手紙の事でわたくし達が騒いだことを怒っていらっしゃるようだけど、女の人からああいう手紙が来たのを、奥さんが怒ったり悲しんだりするのは、妻として愛情を持っている限り当然のことではないかしら……ああいう時、平然としているような女だったら、それこそおかしいと思うわ。奥さんに心配をかける牧谷さんの方こそ、非難されるべきですよ」

 彼の言葉の中に、男の図々しさというようなものを、ぐっと感じとったわたくしは、それを相手に押し返すようにいい切った。

 すると、彼は一瞬「何をぬかすか」というような不穏な色を示したが、思い直したように「ふーん」と太い吐息をもらした。そして独り言のように、ぽそりといった。

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  1. 2017/04/29(土) 13:24:02|
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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
現行憲法廃棄
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