いしずえ

第三巻激流の巻

 戸松さん……ぜひ上海にもう一度かえってきなさい。軍命にしたがって、一応は内地部隊に入隊しても、もう一度上海の部隊に帰属できるように、万策を立てて努力してみて下さい。

 あなたの任務は、戦場にでて戦うことではない。人間の精神を征服する方にまわるべきだ」

 熊剣東はめずらしく長舌をふるった。平素は軍人らしく、手短にてきぱきと語る人であったが、今日はしみじみと情感をこめて語ったのであった。

 蔣介石の頑迷さと、日本政府の政治原理のあいまいさと外交方針の不統一が、事変をこじらせ、混乱の底においつめてしまったという見方は、戸松が日頃くりかえしくりかえし語っていたことであったが、今ではすっかり熊の考えになりかわっていた。

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  1. 2018/02/01(木) 00:00:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松は真面目な顔で頷きながらきいていたが、熊の最後の言葉には、妙に心を刺戟され誘発されるものがあった。心の中で彼はつぶやいた。

 「まったく、俺は自分に最も適した仕事を放棄して、最も不向きな方面にまわされようとしているのだ。もっとも不得意な点で国家に奉仕するということは、なんという能力的損失だ」

 心の底に密封されていた人間的不満が、熊の言葉にかりたてられて、急にうごめき出したかのようであった。この会談が熊剣東将軍との永遠の別れとなるとは神ならぬ身の知る由もなかった。熊将軍は日本敗戦後共産軍と交戦中、戦死を遂げた。帰還後村上の報告で知った。周仏海総理も収監中心臓病で斃死した。

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  1. 2018/02/02(金) 08:59:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

  帰 国

 その夜、戸松は村上、篠原、本田の三人をあつめて、今後の運動の方法、アジア同盟の運営法を、こまごまと指導した。さらに、周仏海、熊剣東との関係は、ぜったいに他の同志に話してはならないと念をおした。もし周一派が日本青年将校と通じあっているということを軍の過激派が耳にしたら、どんな誤解をまきちらさないとも限らないからである。

 「承知しました。われわれ三人以外にはぜったいもれないようにします。先輩の留守の間、われわれがしっかり運動を継続いたします」

 村上は、自信にみちた口調でいうと、手を膝においたまま、重々しく頭を下げた。

 彼はどんな苦難をあたえても、へこたれるような男ではなかった。神経が太いというのか、義侠心がつよいというのか、人がしりごみするような時にも、平然として前進する男である。人心をあつめ、頼らしめ、ふるい立たせるには、もってこいの人物であった。

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  1. 2018/02/03(土) 10:08:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくし達が出発したあと、彼がこの家に居座って、アジア同盟の青年達を統率し、和平運動を推進させていくように、この夜、戸松は命じたのであった。村上は、まだ二十八歳であった。

 船の出発は翌日の昼頃であった。二等の切符がやっと二枚手に入ったが、埠頭にいってみると、二等三等の区別はなかった。

 まるで火事場から逃げ出してきたような大きな荷物をもった人達が、ぎっしりと列をなしていた。航数がすくなくなった上に、内地へ引き揚げる人の数もふえてきたからであろう。

 埠頭まで送ってきたのは、村上、篠原、本田、志村の四人だけであった。内地にかえって、召集令状をしかと見きわめるまでに、外の同志には知らせないようにしたからである。

 行列の十メートルほど前に、村木恒晴氏の家族もいた。篠原が彼らを見つけて、わたくし達のところへ連れてきた。夫人は幼い子供の手をひいていた。ピストルの名人の妻女としては、いたって地味な平凡な女であった。

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  1. 2018/02/04(日) 14:18:27|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 「上海の物価はどんどんあがって暮しにくくなっていくし、旅客船はだんだん数がへっていくし、今に内地に帰りたくても、帰れなくなるんじゃないかと思って、わたくしと子供だけでも、先に帰ることにしましたの」

 彼女の微笑には暗い影があった。喧嘩とピストルで名を売っている夫のかげにあって、上海生活には、なにかやりきれないものがあるのかも知れなかった。

 いよいよ乗船となると、行列はなだれのごとく、船橋めがけてどっと崩れていった。

 『先生先生、戸松先生、見送り人は乗れません。荷物を荷物を……』

 篠原と本田が、わめきながら流れに逆らってちかづいてくる。荷物をもって先に乗りこもうとしていたのを、検札所で断わられてしまったらしい。

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  1. 2018/02/05(月) 00:00:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 村上と志村は、どこにいるものか見当たらない。互いにゆっくり別れをかわすいとまもなかった。戸松とわたくしは、人の流れにもみくちゃにされながら、押し流されるように甲板から船室へとなだれこんで行った。

 入りこんだところが、二等室なのか三等室なのか、わたくしにはよくわからなかった。多分三等ではないかと思った。通路をのこして、両側は一段高くなっていて、古びた畳がひいてる。いや、入ったとたんは、そこに畳がしいてあるのかどうかもはっきりわからなかった。すでに、割りこむすきまもない程、人と荷物がつまっていたのである。

 「いやいや、これは……」

 戸松はあきれたように口走り、眼を血走らせんばかりに、きょろきょろと見廻していたが、

 「あそこが、あいている。あそこへ行こう」

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  1. 2018/02/06(火) 14:24:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 顎でその方向をさすと、トランクと支那カバンを両手にもって、人の群をおしわけながら奥へ進んでいった。

 右手の方に、たしかに人の密度の少ないところがあった。行ってみると、そこには六十ちかい老夫婦が、たくさんの荷物を垣根のようにまわりに並べて、ゆったりと陣取っていた。

 戸松はトランクとカバンを通路のはじによせておくと、中に入りこんで行った。

 「その荷物は場所をとりますから、一つ通路に出していただけませんか」

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  1. 2018/02/07(水) 10:28:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 彼が声をかけると、夫の方は渋い顔をした。しかし妻の方は「はいはい」とあわてたように立上って、大きなトランクを持ち出した。つづいて大きな風呂敷包みを出そうとすると、夫ににらみつけられて止めてしまった。それでも、わたくし達二人が、膝をつめあわせてやっと座るだけの余地ができた。

 一度座席を得ると、もうそこを立つことは出来なかった。座席をえられない人達が、大きな荷物をもったまま通路にあふれていた。身軽く甲板に出て、青年たちと手をふりあうことなど、とても出来そうに思われなかった。戸松はわたくしに座席をゆだねて青年達と別れをつげるために一人で甲板に出ていった。

 かん高い声、がむしゃらな人の動き、騒然とした状態はしばらくつづいた。

 小半時もたったかと思われる頃、戸松は座席にかえってきた。

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  1. 2018/02/08(木) 11:24:49|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 「船はもう揚子江に出るところだよ」

 注意してみると、ゆるやかに船が動いているのがわかった。

 「うん……また来られるさ」

 戸松は無表情のまま、ぼそりといった。

 また来られるさ?……とんでもない。わたくしはもう二度と上海には来たくないと思っていたのだ。もう二度とこの都会には住みたくないと考えていたのだ。

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  1. 2018/02/09(金) 13:55:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 空虚な栄華にただれきった都市、不信にみちた都会、富める者の天国、貧しき者の地獄、……上海は、わたくしの眼には、空しさと愚かさにみちた都会に映じていたのだ。この娼婦のようにだらけすさんだ都会ですごした日々は、今、二度と繰返したくない。苦渋と忍耐にぬりつぶされた暗い思い出となろうとしているのだ。

 去年の春、希望と期待に胸をふくらませて揚子江を上ってきた時にくらべると、何んという大きな心の変化であろうか。あの時は一等船室で、一室に十人足らずのゆったりとした旅であった。清潔な食堂も浴室もついていた。旅の雰囲気が、未来に大きな希望をいだかせた。

 しかし、今度の旅路は、上海生活への失望と前途の苦難を象徴するかのように、みじめなものであった。その上、船の中のこの混雑は、勝運にむかっている国のものとは、決して思えなかった。

 座ったまま、足をのばすことも出来ず、わたくしたちは互いによりかかりながら、黙って船の動きを感じていた。

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  1. 2018/02/10(土) 09:37:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 着物を通して、戸松の体温がほのかにつたわってくる。彼は今、何を考えているのであろうか……そっと彼の方をふりむいてみると、腕組みをして眼をつむっている。

 眉根をよせるようにして、口元をぐっとひきしめたその表情は、内面の苦渋をにじみ出しているかのようであった。

 この人の苦悩は、わたくしのように、個人的な苦しみではないのだ。体温が通いあうほどにぴったりと寄り添っていないながら、日本のため、アジアのために苦悩する戸松を、わたくしは遙けき人のように感じたのであった。

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  1. 2018/02/11(日) 00:00:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松は和平運動の途上で応召し、中断をよぎなくされたのであるが、六月にサイパンが陥ち、日本本土がいよいよ敵の脅威にさらされるようになると、東条は責任をとって首相の地位を降り、後をついだ小磯内閣と軍首脳のあいだに、対重慶和平工作を真剣に考える空気がおきてきた。八月には最高指導会議で和平条約が討議され、病気療養中の汪主席の留守をあづかる陳公博、周仏海の国府首脳にこの旨が伝達された。

 その和平案なるものの梗概は、一年前に戸松がかかげていた和平案とほとんどそっくりであった。つまり、一つ、中国の中立、二つ、在中米英軍の撤兵とともに日本軍も完全に撤兵する。三つ、蔣介石の南京帰還、統一政府の樹立、などである。しかし、この工作も、独伊日の敗勢が、いよいよあきらかになった二十年の三月には、絶望状態となり、ついに実をむすぶことなく終ってしまった。十九年までに和平をむすばなければ、永久に時機を失してしまうと焦っていた戸松の言のとおりになったのだ。

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  1. 2018/02/12(月) 11:31:10|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 一年前、反戦主義者として、憲兵と特高においまわされていた戸松の和平案と同じものが、今度は政府と軍首脳の手によってねり上げられたということは、なんという皮肉なことであろうか。

 国家に真中となる根本原理が立っていないため、つねにこうした行きあたりばったりの政治外交をくり返さねばならなかったのである。


  入 隊

 静岡をすぎるころから朝日は白光にかわり、夜汽車につかれはてた乗客のものうげな顔にも、やっと生気がよみがえってきた。

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  1. 2018/02/13(火) 16:51:36|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松は早く洗面をすませ、憮然とした顔つきで窓のそとをながめていた。富士山とおぼしきあたりは薄綿のような雲におおわれて、せっかくの雄姿も定かでない。

 「東京までがまんするんだな」

 彼は、ふと気づいたように、ふりかえって云った。

 静岡の駅で、わたくしたちは弁当をかいそこねてしまったのだ。戸松がいそいでかけおりていったが、すぐに空手でもどってきた。駅弁は大きな駅だけに一定量づつ割りあてられているらしく、よほど運がよいが、人をつきのけるかでもしないかぎり、手にはいりそうにもなかった。だいいち、彼のように、汽車がプラットホームについてから席を立ったのでは、間に合わないのである。彼がホームにおりたったときには、すでに駅弁屋のまわりは殺気立った人垣でうずまり、見る見るうちに品切れになってしまったのであった。

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  1. 2018/02/14(水) 14:55:04|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 彼はよほど不愉快だったとみえて、席にもどると、

 「だめだ」

といったきり、窓の外に眼をはなち、それっきり弁当のことにはふれようとしなかったのであるが……心のなかでは、ひっそりと思案しつづけていたものであろうか。とつぜん、思い出したように、弁当のことをいいだしたのである。

 「東京まであと五、六時間だ。大したことはない。母がなにか食いものをもってきているだろう」

 彼は慰めるようにいった。

 「秋田のおかあさんが……東京に?」

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  1. 2018/02/15(木) 11:05:53|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしは思わずききかえした。

 「うん、父も一緒だろう、きっと」

 彼はそれっきり又、窓の方にむいてしまった。

 わたくしは一食や二食の食事をぬくことぐらいは平気であった。ことに長途の汽車旅行では、食事はほとんど無用といっていいくらいである。食べるものにありつけるということよりも、秋田の父が東京にでてくるということの方に、よっぽど大きな感動をおぼえた。

 戸松の父は若いころから胃潰瘍をわずらいつづけ、今では慢性化してしまって、腹の皮が背骨にはりつくほどにやせこけていた。気力だけで何年も生きつづけてきたといってもいいほど衰弱がめだっている人である。その父が、東京にでてくるというのだ。これはどういうことなのであろうか。

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  1. 2018/02/16(金) 11:48:29|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 一昨日の夕、船からおりると、荷物をわたくしの足元に山づみにしたまま、戸松は単身どこかへ消えさり、しばらくのあいだ帰ってこなかった。おそらく、あのとき、彼は秋田の両親や上海の同志に電報をうっていたものであろう。あの病弱な父と旅なれない母に上京をうながし、東京で親子の対面をして、そのまま近衛師団に入隊してしまうつもりなのだ。

 彼はすでに覚悟を定めている。おそらく、日本の土をふんだとたん、彼は自分の運命を決定的なものと予感したものにちがいない。いや、それとも、あの避難船のごとく、人間と荷物を山のように混掲した船で、敵の魚雷をさけながら航海しているうちに、彼の決意は心ふかく定着したのかもしれない。

 上海にあるあいだ、ことに後輩の青年たちにとりまかれているあいだ、彼はびしびしと行動をとりながらも、なんとなく楽観的で余裕をみせていた。現地の軍政にあたっている彼にたいする召集が、なにかの間違いではないかという判断と、彼の運動に期待をかけている二、三の高級将校たちが、彼をふたたび中国につれもどすべく、何らかの手をうってくれるにちがいないという希望をいだいていたからである。

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  1. 2018/02/17(土) 10:00:54|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 その彼が、長崎の港で船をおりてからというもの、なんとなくむっつりと黙りこんでしまって、よけいな事は云わなくなってしまったのである。

 宿でも、汽車にのってからでも、顔の筋肉をぎゅっとひきしめるようにしたまま、表情をゆるめることがなかった。彼が何ごとかを思いつめ、ゆきづまっている時の顔色である。

 もっとも、上海を発ってからというもの、次々とろくな目にあわなかったといってもよかった。応召していく彼にとっては、一つ一つがこれからの運命の前兆のように思えたかもしれない。

 あの荷物のようにぎっしりとつめこまれた三等客船、しかも折からの荒天に昼夜をとおしてさいなまれ、おまけに魚雷をさけて朝鮮沖を迂回するために倍の日数をついやし、やっと船から解放されて、重い荷物をひきずるようにして出てきたものの、町では車をつかまえることすらできなかったのだ。一年まえにくらべると、長崎の町には自動車も人力車もぐんと数少なくなっていて、知るべのない旅人には無縁のもののごとく、空軍は一つもなかった。

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  1. 2018/02/18(日) 14:21:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 彼は不機嫌そうに荷物を見つめていたが、やがて荷物のなかから太めの腰紐をひっぱりだし、トランクと支那カバンの取っ手を二重にむすびあわせて振り分けにした。わたくしには、その一つさえも持ちあげることが出来ないほどの、ぎっしり詰めこんだ重い荷物であったが、彼は「よいしょ」という掛け声とともに、その振り分け荷物を肩に背負いこみ、さらに右手には、革の書類カバンをもったのである。この書類カバンが又、ぎゅうぎゅうにつめこまれていて重かった。

 「体裁なんか、かまっていられるか……」

 ひとり言をいいながら、彼はあごをつきだすようにして、双肩に全力をあつめ、一歩一歩をたしかめるようにして歩き出したのである。背広をきて、大きな振り分け荷物を重そうに背負っている姿は、彼のいうとおり、あまり体裁のいいものではなかった。

   (43 43' 23)

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  1. 2018/02/19(月) 11:20:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしは、風呂敷と小さなボストン・バックをもたされた。せめて書類カバンでも持たなければ気の毒だと思ったのであるが、さし出した手は彼に払いのけられてしまった。

 それから旅館をみつけるのが、また一苦労であった。

 まず、最寄りの旅館のまえで荷物をおろし、部屋をたのんだが満員だといって断られてしまった。その旅館にたのんで四、五軒電話で問い合わせてもらい、やっと一軒あったので、そこまで又荷物をひきづっていくことになった。

 石畳の勾配を「うんうん」とみじかい唸り声をたてながら、彼はのぼっていった。額にはじっとりと油汗がにじみでていた。

 ようようの思いでたどりついた宿は、しもた屋のような構えの三流旅館であった。

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  1. 2018/02/20(火) 21:15:46|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 がらんとした六畳間に案内するがいなや、おかみさんは無愛想な声でいったものだ。

 「配給が思うようにありませんので、お米を先にいただきませんと……」

 わたくし達は思わず顔を見合わせた。戸松の顔には、さっと不快そうな色が走ったが、声はおだやかに、上海から帰ったのでお米はもちあわせていないと云った。すると、おかみさんは、

 「それじゃあ、高くつきますが闇米で都合するより仕方がありませんねえ」

という。

 闇米でも代用食でも、なんでもかまわないというと、やっと飲みこみ顔ににっこりと笑ってみせた。そして、食糧不足と手不足のため、古くからのお客のほかは成るべく断わるようにしているのでと、勿体ぶった云いわけを付加えた。

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  1. 2018/02/21(水) 14:11:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 その夜も、戸松は時々何かいいたそうに、じっとわたくしの顔をみることがあっても、いつものようい、砕けて笑談をとばすようなことはしなかった。彼が無口になってしまったのは、不愉快なことがつぎつぎと重なっておこるからであろうと、わたくしは判断した。

 昨日の昼頃、宿を出立するまえであった。彼は上衣の内ポケットから、二つ折りにした封筒をとりだして、わたくしの膝のうえにおいて云った。

 「これは熊剣東からもらった餞別だ。僕が入隊したら、これを日本銀行にもっていって日本金にかえてもらってくれ。一万五千円(今の五千万円)ぐらいに相当する。現金にしないで、そのまま秋田銀行に送ってもらうといい。

   (43 43' 23)

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  1. 2018/02/22(木) 12:12:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 村上がもし僕の在隊がながびくようなことになったら、おくさんに月々送金しようかといっていたが断っておいた。

 僕がかえるまでこの金をつかっていてくれ。

 この金で両親に孝養をつくしてくれ。

 病身な人だ。

 そう長くは生きられないだろう。

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  1. 2018/02/23(金) 09:41:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 せめて僕がかえってくるまで、あと三年ぐらいの間、なんとか生きていてもらってくれ」

 「三年……あなた、三年もかえれないと思っていらっしゃるの?」

 わたくしはびっくりしてきいた。

 「これだけは自分の思いどおりにはならないよ。だいたい三年たてば、この戦争もなんとか解決つくと思うがね。

 三年ぐらいは生死をかけた体験をしなければなるまい。まあ、戦死するようなことはあるまいが」

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  1. 2018/02/24(土) 09:47:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 彼はめずらしく虚無的なわらいをうかべた。わたくしは彼が軍隊のなかで、自分の理想も信念も一切をすてきって、ひたすら上官の号令どおりに動きまわっている姿を想像することはできなかった。

 彼はこれまで、日中の和平、アジアの平和という民族的理想をかかげて、自分の意志どおりにうごいてきた人である。この偉大な理想のためには、針の穴でもとおりぬけようとするほどの、熱情と工夫と努力をそそぎつづけてきた人である。しかも、今の日本には自分をおいては他にこの理想を正しく建設できるものはいない、自分自身がやりとげなければならないという使命感をもって、闘ってきた人である。今度も又、かならずや、上官を説得し、部隊長をもうごかして、再び東支那海を西に大陸にとわたっていくに相違あるまいと、わたくしは予想し、今ではもうそう信じこんでいたのである。

 そのため、日頃の彼に似合わず、ばかに気弱なことをいうものだ、と意外に思ったのであった。

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  1. 2018/02/25(日) 13:48:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしは彼の前途を、どう判断していいのかわからなくなった。上海で彼や青年たちがいっていたとおり、入隊してもすぐ除隊になれるものか、それとも、そのまま南方にひっぱられていってしまうものか、今までになく覚悟をほのめかす彼の言葉が、なんとなく気がかりになってきた。しかしまあ、日頃から自分の運勢はつよいと自慢し、自分の力を信じている人であるから、そう悪い事態に陥ることはあるまい……と結局最後には楽観してしまっていたのである。

 しかし、現在の彼の心の状態が、上海にいるときとはすっかり変ってきていることは確実であった。あの衰弱してよたよたしている父を、東京によんでいるということは、自分の決定的な運命を覚悟しているからである。

 日本にかえった瞬間、彼は去年の冬、憲兵においまわされた時の、あの八方ふさがりの息詰まるような記憶を、現実のものとして呼びおこしたものかもしれない。

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  1. 2018/02/26(月) 11:24:37|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 とにかく、上海では彼は自分の意志どおりに動くことができた。憲兵は彼を監視しながらも彼の思想に共鳴し、好意的な助言をあたえていたし、軍の高級将校や南京政府の要人は、資金を援助しながら彼の運動をたすけてくれた。

 話せばわかる人間は、かならずいるものだという確信が、彼に人間と社会を信じさせ、希望をいだかせてきたのであった。

 だが、日本の現実はちがっていた。髪の毛ほどの融通もゆるさないほど、網目のようにがんじがらめに結ばれていて、小鳥一羽自由にとびたつことも出来そうに思われなかった。うっかり羽ばたこうものなら、完全に国家からはみだしてしまって、自分の居場所をうしなってしまいそうな印象があった。

 国家の理想や運命をかんがえることなどは、ひとにぎりの最高指導者だけにゆるされることであって、他の人間は彼らの考えを自分の考えとし、彼らの意志に信従するいがいに生のあり方をみとめられそうにもない……こうした妥協の余地のない圧政のにおいが、船のなかにも、旅館にも、汽車のなかにも、そこで働く日本人の言動のなかにも、しみついていたのである。それは戸松がぎくりとするほどの、わずか半年の間の変化であった。

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  1. 2018/02/27(火) 11:21:29|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松はいち早く、そうした現実をよみとり、自分の前途にくわるる圧迫を予感し、それに応ずべき用意をもくもくと実行していたのである。

 男と女のちがいか、それとも人間の相違か、わたくしは何時も彼の心の動きに立ちおくれがちであった。彼は直線をあるき、わたくしは曲線をゆっくりまわっていた。

 上海にいる間中、わたくしは日本の情緒と人情がわすれられず、上海の空気にどうしても溶けこむことができなかった。それなのに、日本にかえった今、こんどは上海の自由と開放感が心にまといついていて、日本の社会にただちに溶けこむことができないのである。旅館にいても、汽車にのっても、何んとなく窮屈でせせこましく、人間という人間が、みな権力的なものには卑屈でそれでいて他人には狭量でおせっかいで、物欲しげでうるさく感ぜられたのであった。

   (43 43' 23)

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  1. 2018/02/28(水) 11:11:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
現行憲法廃棄
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