いしずえ

第三巻激流の巻

 二郎氏は、戸松の顔さえ見ておれば機嫌がよかった。戸松のそばにいると、彼自身の内部から自然と希望がわいてくるらしい。

「なに、閣下の足が四、五日たってもよくならなかったら、わたしがおんぶしてでも連れて来ますよ」と力んでみせた。

 とにかく、この問題は四、五日停滞状態にはいってしまったのだ。二郎氏は帰りに易者によって、この問題がどうなるか、又自分の病気はなおるかどうか、見てもらいたいと云った。戸松は彼の知っている、評判の高い易者をすすめた。

 高島某というその易者は、牛込区の神楽坂に住んでいた。がっしりと太った、四角な顔の男であった。髭の濃いたちと見えて、黒々としたあつい髪の毛を、真直ぐにうしろになでおろしていた。

 お前たちのことなら何でも知っとるぞ、というような眼をして、彼のテーブルの向うから冷たくわたくしたちを見比べた。

 鈴木氏は、真剣な面持でいった。

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  1. 2018/05/01(火) 18:24:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「じつは、わたしは今友人のことで、いろいろ奔走しているのですが……はっきりいいますと、その友人は憲兵に誤解されまして、反戦運動をしたというので召集されて、上官からも注意人物扱いされているのです。

 彼をよく知っているある有名な高級将校が、彼を弁護するために、聯隊へ行ってやるというのですが、今足に怪我をして、しばらく動けそうにないんです。これは成り行きをじっと待っていても、希いどおりになるもんでしょうか」

「うーむ」

 易者は重々しい手つきでテーブルの上に紙をひろげ、

「その友人の生年月日は?……入隊して何日になりますか……」等々、ききだしていたが、やがて筮竹をとりあげて易を立てはじめた。

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  1. 2018/05/02(水) 10:26:12|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 しばらくの間、筮竹をかぞえては算木を動かしたりひっくり返したりしていたが、

「これは、ちょっとむずかしいなあ、この人は前線へ行くようになるなあ。先輩や友達のたすけはこの人の場合役にたたないですねえ」

といった。そういう解答は、時局がら誰にも考えられる常識論だ。わざわざ易をたてて判断するまでもないことだと、わたくしは腹立たしさを感じた。

「そうですか……」

 二郎氏はがっくりとうなだれてしまった。

「この方の運勢もついでに見て下さい」

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  1. 2018/05/03(木) 14:38:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしはすっかりしょげこんでしまった二郎氏をうながして、これからの運勢を見てもらうようにすすめた。二郎氏の手相、人相をくわしくしらべていた易者は、

「あんたの病気は長びくがなおりますよ。長生きするよ、あんたは。仕事は建築業なんかがむいていますねえ。

 ああそう、満州で建築をやっていたんですか。それじゃ、病気がなおったらそれをやりなさい。一番むいていますよ。

 あんたは親分肌の気の大きなところがあるが、反面くよくよと神経をつかいすぎる点もありますねえ。環境さえよければ、あんたは親分になれる人だ」

 易者はカラカカラと笑いながら云った。これだけは当っているかもしれないと、わたくしは思った。

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  1. 2018/05/04(金) 08:59:37|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 外に出ると二郎氏は、

「ちえっ、来なければよかった。戸松さんの運勢と俺の運勢が逆だなんて、そんな馬鹿なことがあるもんか。ヘボ易者めが……」

とぶつぶつ不平をこぼしながら歩いた。

 飯田橋駅のプラットホームに出ると、二郎氏は少し休みたいといって、ベンチにどっかと腰をおろしてしまった。顔色が青ざめ、眼がしょぼしょぼと力なくまたたいていた。

「疲れたでしょう」

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  1. 2018/05/05(土) 13:30:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしは彼をいたわってやりたかった。長い療養生活で体力が衰えているにもかかわらず、神経をつかいながら毎日活動しつづけたのである。

「苦しいんですよ。もう気胸をしてもらう時期なんです。それで、よけい苦しいんです」

 彼は眼をつむって、胸をぐっとはるようにした。わたくしには肺患者の苦痛はわからない。おそらく、胸のつまるような息苦しさではあるまいかと察した。

「奥さん、わたしは一度秋田に帰ってきます。気胸をしてもらって、少し栄養をとってこないと、もう動けないんですよ。四、五日したら必ず又出てきますから……」

 申しわけなさそうな声であった。

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  1. 2018/05/06(日) 13:45:36|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「いえ、もう出ていらっしゃらなくても結構ですわ。あとは運にまかせるより仕方がありませんもの。それよりも、今度は御自分の身体を大切にして下さい」

 わたくしは、もう彼には上京を思いとどまってもらいたかった。この上彼の病気を悪化させるようなことになったら、彼の療養のためにぎせいを払っている家族の人々にすまないと思ったからである。

「そういうわけにはいきませんよ。わたくしと戸松さんの間柄は、そういうわけにはいきませんよ」

 二郎氏はわたくしの女心を嘲笑うかのように、皮肉そうな苦笑いをうかべて云った。だが、すぐ真顔にかえって、今度はしみじみと、一言一言に力をこめて語り出したのであった。

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  1. 2018/05/07(月) 10:52:35|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「奥さん、あんたは御存知ないかもしらんが、わたしは戸松さんには並々ならぬ友情をうけているんですよ。

 わたしの子供が、立って歩き出したころ、足がひどく蟹股だということがわかって、今の中になおさないと一生本人が苦しむだろうというので、わたしも家内も気が気ではなかったんです。丁度わたしが発病したころだしね。子供の足のことにまで金がまわらなかったんですよ。

 その時、戸松さんが有り金をなげ出して、先ずこれで子供を入院させろといってくれた。あと足りない分は何とかしてくれるというので、家内につきそわせて仙台の病院に入院させたんです。半年も入院して帰ってからも、長くギヴスをはめたままで、時々病院に行かなきゃならなかったが、とうとう最後まで戸松さんは面倒を見てくれたんですよ。

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  1. 2018/05/08(火) 13:54:36|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 そのうえに、何とかして生活が立つようにしてやりたいといって、家内にミシンを買いそれで内職するようにすすめてくれたり、色々世話をやいてくれました。戸松さんは、わたしの生涯の唯一の生きる希望なんだ。日本にとっても、あの人は希望となる人だ。ほんとうですよ、奥さん……とにかく、わたしはもう一ぺん、東京にかならず出てきます」

 電車がつぎつぎと、ものすごい轟音をたてて入ってきては出ていった。鈴木氏はいつまでたっても立上ろうとはしなかった。

 のちにこの鈴木氏は戸松が南方第七方面軍(ビルマ)に出動したことを知り驚愕のあまり、これが原因となって発狂し、脳病院に入院することになった。それ程まで思い詰めていたのである。

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  1. 2018/05/09(水) 13:58:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

  出 動

  動員令

 もはや五月であった。

 能代にかえった鈴木二郎氏からは、一週間たっても何の音沙汰もなかった。

 疲れがよほどひどかったのか、それとも、家族にひきとめられているのか、四、五日したら必ず又出てきますと云った彼の言葉は、強硬に云いはっていただけに、腹立たしい失望を感じさせた。

 肺病患者を当にしていつまでも待ってはいられない。前田中将がまだ歩けないようであれば、手紙を書いてもらって、半田大佐にとどけたらどんなものであろうか---と、わたくしは考えた。

 八日目の朝、今日こそ、それを実行にうつすべき日だと思った。

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  1. 2018/05/10(木) 11:17:01|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 武蔵野の空はからりと晴れ上り、空気はすがすがしい活力にあふれていた。大地は生命的エネルギーにみちみちていて、庭の一点をみつめていると、只それだけで其処からむくむくと何かが萠え出してくるように思われた。

 手入れのゆきとどいている草花も、むしり残された雑草も、太陽の光のもとに、ひとしくみずみずしい緑の美しさにあふえていた。刻々の変化が感じとられるような、生々とした生の美しさであった。それは一瞬一瞬、全力を統合して、たゆまず成長をめざしている生命の権威を感じさせた。

 わたくしは、この精気にあふれた武蔵野の空気を胸ふかく何度もすいこんでみた。すると、不思議なことに、身体の内部に自信と勇気と活力が、むくむくともりあがってくるのがわかった。

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  1. 2018/05/11(金) 15:01:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 今日こそ、きっと解決してみせる---わたくしは自らの心に言明した。

 まず最初に、戸松の了解をえ、その足で荻窪の前田邸をたづねてみよう。そして、戸松が反国家的な反戦主義者ではないということ、彼のように中国の民心に通じている人間を、中国からひきぬくということは、国家の損失であるということなどを詳しく手紙にしたためてもらおう。閣下が手紙を書いている間待っていて、今日の中にかならず手に入れ、明日早朝、半田聯隊長にとどけることにしよう。

 わたくしは勢いよく母の箪笥をあけ、あずけてあった一番気に入りの着物をひっぱり出した。藍の勝った紫地に、銀系で薔薇を織り出したものであった。

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  1. 2018/05/12(土) 15:13:38|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 この着物を身につけると、きみょうに超越的な高貴な気分となり、気弱さや卑屈さを克服することができるのである。わたくしは自らをいじらしく思うほど、一つの決意をもって家を出た。

 部隊についたのは、十時ちょっとすぎであった。営門を入ると前庭の芝生に、兵隊をとりまく面会人が、それぞれグループをなして一面にちらばっているのが目に入った。

 兵舎にむかって、まっすぐに歩いていくと、横手の面会群の中から、

「おいおい」

と、耳なれた声が呼びかけてきた。戸松が立って手まねいていた。

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  1. 2018/05/13(日) 16:04:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 一足先に、わたくしの三番目の兄義彰が、六つになる長男をつれて、面会にきていたのである。なるほど、今日は日曜日であった。面会の人の多いのもその為である。

 戸松はにこにこ笑いながら、わたくしの近づくのを待っていた。何か嬉しいことでもおこったのかな---わたくしは或期待を覚えた。

 しかし兄の顔は暗くむっつりとしていて、

「やあ……」と、みじかく声をかけただけであった。不安そうな眼をいそがしくまたたいていた。それは盛装して晴々とした顔でちかづいてくる妹を、ほほえましい気持で迎える肉身の顔ではなかった。困惑と憐憫のいりまじった、硬くぎこちない表情であった。

「今日は馬鹿にめかしこんできたものだなあー」

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  1. 2018/05/14(月) 15:07:47|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松はにやにや笑いながら、腰の手拭をはずしてぽんと投げてよこした。わたくしはそれをハンケチと並べてしいて、その上にそっと腰をおろした。

「とうとう出動命令が出たんだよ」

「ええっ!」

 居合抜きに、ぱっといきなり切りつけてきたような戸松の言葉であった。不意をくらって、わたくしの心は真っ二つに切りさかれてしまった。今朝からの決意も期待も闘志も、血潮がどっとほとばしり流れていくように、さっと崩れ去っていった。

 やがて、空白の数瞬がすぎた。戸松は相変らずにこにこと笑い、兄は相変らずむっつりとして子供の手をもてあそんでいた。

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  1. 2018/05/16(水) 13:35:48|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「びっくりする事はないよ。当然のことだ。いろいろ苦労をかけたね、感謝するよ」

 戸松の声は平静でさりげなかった。彼があらたまって「感謝するよ」といったのは、おそらく結婚いらいはじめての事かもしれなかった。彼はその言葉を照れもせず、何気なくいってのけたのである。

「いつ……いつ、出発ですの?」

 時間があるならば、戸松のために何かを為さねばならない---ぼう然と自失していたわたくしの頭脳も、すばやく廻転を開始しまじめていた。

「今日の夕方だ。おそらく六時ごろ出発になるだろう」

「六時……」

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  1. 2018/05/17(木) 13:36:52|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくしは腕時計をみた。まだ七時間余の余裕がある。

「それでは、わたし、これから前田閣下のところへ行ってまいります。このことを閣下に報告して何とか善処していただきます」

 わたくしの心は昻ぶり、声はうわずっていた。自分の怠慢と惰弱が戸松を窮地におとしこんでしまったような、やりきれない悔恨と責任を感じていた。また、こういう衝撃と興奮のあとならば、どんな困難なことでもやりとげそうにおもわれた。

「まあ、落ちつけ、もういいよ。今更じたばたするのはみっともない。これ以上閣下に心配をかけるな。

 こういう運命だったのだ。運命ときまれば、どっかと腰をすえてかかるだけだ」

 少年のような無邪気な笑いをうかべながら、彼は声だけは豪快な太々しい力づよさで云った。

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  1. 2018/05/18(金) 14:12:38|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「人を頼りにしたり苦悩したりするのは、客観的に自分の運命が右にも左にも、なんとか変る可能性があるときだ。

 今日中に出動ときまったら、かえって心が落着いてきた。心がきまれば、それがどんな逆境であろうと、俺はただちに環境の主になれる人間だ。有能な兵隊となって、前線へ出動するよ。俺の人生には、そういう体験だって必要なのだ」

 彼の頭からは、いつの間にか笑顔は消えていた。鼻尻から両顎にかけて、法令線が頬を劃するようにくっきりと刻みこまれ、眼光は長い眼の中央にあつまり、彼は見えざる何ものかを凝視していた。

 彼がこういう表情になるとき、大いなるものが彼自身の中に宿って、彼をして男々しく独往せしめるときだ。こういう時、彼にたいする安易な励ましや慰めや労わりは、まったく無用のものであった。

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  1. 2018/05/20(日) 17:13:21|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「それでは、わたしも直ぐ秋田に行って、両親に孝養することにしましょう」

 彼の表情に呼応するかのごとく、わたくしも意思表示した。

「うん、そうしてくれ」

 ふたたび彼は柔和な表情にかえっていった。

「父は若いときから病気ばかりしてきたから、孤独なんだよ。母は忙しいし、弟妹は話相手にはなれないし、とにかく淋しい人なんだ。上海での仕事のことなんかくわしく話してやってくれ、勇敢に社会活動するような話が大好きな人だ。嫁を通してきけば、尚一層愉快に思うことだろう」

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  1. 2018/05/21(月) 11:03:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 この時、今まで黙っていた兄が、子供の肩をひきよせながらいった。

「それじゃ、僕はここらで失礼することにしましょう。朝飯をろくに食わずに出てきたものだから子供がどうやら腹をすかしているようだから……」

 子供は大人たちの対談にあきあきして、さっきから、芝をちぎっては父親の衿首に入れたり、上衣の裾をひっぱったりして、しきりに父親の行動をうながしていた。

 兄は立上ってズボンのくずれを直すと、

「それじゃあ、武運長久を祈っております」

 あらたまった表情で、ふかぶかと頭をさげた。

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  1. 2018/05/22(火) 18:18:27|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 遠ざかっていく親子の後姿を、戸松はいつまでもじっと見送っていた。

「義彰さんは、あんたの兄弟のなかでは一番情があるようだなあ。義理にもあつい人だ。あんたがくる一時間も前から来ていたんだよ。仕事が忙しくて面会にくるのがおくれたといって、ひどく恐縮していたよ」

 営門を出るとき、兄はふりかえって、手をあげた。まるくふとった身体が、あたたかい印象を残した。

 たしかに戸松のいうとおり、この兄は外の兄弟よりはずっと情に厚く、わたくし達夫婦と一番交わりの深い兄かもしれなかった。兄妹という身近さから無関心になって、いままで深く考えてみたこともなかったのであるが、わたくしの人生の関節関節には必ずといっていいほど、肉親としての思いやりをそそいでくれたものであった。

 わたくしが学校を巣立って化粧に興味をもちはじめたとき、兄は鷗外や漱石の書物を数冊送ってくれた。外面の美を求めるよりは、内面の美を豊かにせよ---というのが、この時の兄の教訓であった。

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  1. 2018/05/23(水) 10:53:27|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 次に戸松との結婚問題で、家族の意見が分裂したとき「神様のような安部磯雄ほどの人格者が、人物を保障するんだから、上海でも香港でも、どこへでもやったらいいじゃないか」と、最後の断を下したのもこの兄であった。

 そして、今また、戸松に出動命令の下った日に、はからずして彼は面会にきたのである。

 兄はわたくしたちに、ゆっくり話をさせようと思って先に帰ったのであろうが、二人きりでとくべつ話し合わねばならないことは何もなかった。

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  1. 2018/05/24(木) 10:18:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 戸松の明日からの運命は、まったく予測もゆるさないものである。南方前線にいくことはたしかであったが、どの方面にいくものか、アメリカ軍とたたかうのか、イギリス軍と戦うのか、かいもく解っていなかった。はっきりしていることは、今夕六時ごろ出発するということと、目的地にいくには、敵の手中におちて死の海と化してしまった南方太平洋をわたっていかねばならないということだけであった。

 明日のことを話せば不安となる。一ケ月先、一年先のことを話せば不安はいよいよつのるばかりだ。

 戸松も、もし自分に万一のことがあったら---などという遺言めいたことは一言もいわなかった。国家の運命が激流にもまれているとき、個々の運命をおもんばかったところで何になろう。只、国家の運命を信じるというより外に、個人の希望も救いもありうるはずはなかった。

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  1. 2018/05/25(金) 14:26:14|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 わたくし達は、鈴木二郎氏が落胆する様子などを、想像して語りあっただけであった。

「さて……僕は昼頃から仕事があるんだ。これでわかれることにしようか」

 腕時計をのぞきながら、戸松は立上った。十二時少し前であった。

 手拭いの塵をはらって、ていねいに畳んで差出すと彼は無雑作にそれを腰にはさみながら云った。

「身体を大切にしてくれよ」

「あなたも」

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  1. 2018/05/27(日) 18:08:10|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

「うん……それじゃ……」

 彼はにっこり笑って挙手の礼をした。瞳が万感をあつめて光っていた。

 彼はさっと視線をそらすと、すたすたと兵舎をめざして歩きだした。兵舎までの距離は五十メートルもあったであろうか。わたくしはそこに立ったまま、じっと見送っていた。

 彼の向うに薄暗い出入口が、穴ぐらのようにぽっかりと口を開けて待っていた。彼はその前でふりかえって手をあげた。そして早く帰れというように、営門の方にむかってその手をうごかした。笑っている様子であった。

 わたくしは、尚も手をふりながらそこに立ちつづけていた。

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  1. 2018/05/28(月) 09:58:31|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 すると、彼は、再びくるりと背をみせて、吸いこまれるように、兵舎の中にと消えていった。

 わたくしも、力なく頂垂れながら、営門にむかってあるいた。

 これが最後になるかもしれない---いや、彼は必ず生還する、彼は運勢のつよい男だ---二つの思いが、心の中で公叉した。

 営門を出るとき、もう一度わたくしはふりかえった。兵舎の入口には人影はなかった。

 ふと---彼との人生が、これですべて終焉してしまったような、暗い思いがおそってきた。

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  1. 2018/05/30(水) 11:05:15|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第三巻激流の巻

 彼が帰還したとしても、彼のように鋭敏な才能と偉大な理想をもった男と、これ以上夫婦として歩調を合わせつづけていくことは、とうてい不可能のようにおもわれてきた。

 尼寺に行きゃれ---どうしたものか、突然ハムレットの台詞が現実のひびきをもって心を圧してきた。

 そうだ、彼の留守のあいだ、じっくり考えてみることにしよう。彼の生死にかかわらず、彼の妻としていよいよ自身が持てなくなったら、その時こそ尼寺だ……。

 夫を戦場に送る身の、なんという乱れうらぶれた心であったろうか。わたくしは、自分の愚かな矛盾にも気づかずに、振り返り振り返り門を出たのであった。

 このとき、兵舎の窓の一つから、惜別の情をたたえた戸松の眼が、じっとそそがれていることなど、知るよしもなかった。それどころか、彼の胸にみちみちている感慨を、おしはかって見ることすらも出来なかった。

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  1. 2018/05/31(木) 10:52:05|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
現行憲法廃棄
日米安保破棄

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